カイト・カフェ

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「楽園などない」〜自助努力なしで生きる時代の子どもたち2

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ピーテル・パウルルーベンス&ヤン・ブリューゲル(父) 「楽園のアダムとエヴァ」 (1597-1600)

【社会的関係を切り捨てる人たち】

 この春、近所で話題になったことのひとつは、輪番で隣組長になるはずだった人が町会そのものから抜けてしまったということでした。
 彼は市役所に電話をかけて町会が任意組織であるから脱会可能なこと、そのための手続きは町会長に連絡をして了承されればいいだけということ、この二点を聞き出して実際にやってしまったのです。
 たったそれだけの手続きで役員をしないで済み、年8000円の町会費や秋祭りの賛助金なども払わずに済み、一斉清掃や避難訓練を免れることができるのです。もしかしたら彼は自分の頭の良さと実行力に酔っていたのかもしれません。
 町会を抜けたところでご近所は火事でも葬儀でも知らんぷりということはないだろうし、大雪の日に自分の家の前だけは雪かきをしないという意地悪もしないだろう。仮にされたところで数年に一度の雪かきなど、自分一人で頑張ればいいこと――そこまで考えたかどうか。

 私はその話を聞いてPTAの脱会問題を思い出しました。
 あれも役員をせずに済む、会費を払わずに済む、バザーや資源回収、運動会へ協力といった仕事もせずに済む。ただしバザーや運動会には客として参加することはできる。万が一予測しない不利益があったとしても(卒業式にPTA提供のリボンがもらえないということがあった)、金で解決するか人権問題として訴えればいい、そんな感じかもしれません。

 私たちは通常、こうした行為を見たり聞いたりすると、わがままだ、身勝手だと怒り、人間としてみっともないことだと呆れ、それとともに後続が次々と出て組織が崩壊するのではないかと恐れたりします。
 私はその上、この人の家からどんな子が育ってくるのか、それが心配になってきます。

 もちろん親子の生き方が必ず似るとは限りませんし、親を反面教師として厳しく生きる人もいますから一概には言えないのですが、普通なら当然見ているはずの親の社会的側面を、全く見ることなく育つ子がいるというのは、やはり危険な気がするのです。

【集団から離れようとする意識、離れない意識】

 町内会やPTAについてはこのところニュースでも取り上げられていますから、これらが任意組織だということも、そこからの脱会が可能だということも、広く知られるようになってきています。

 また、資本主義の世界では「より少ない投資でより多くの収益を」が原則ですから、投げ込んだ資金やエネルギーに対して見返りが少ない投資からは早く撤退するのが正しい行動ということになります。その点で例え8000円とはいえ見返りのほとんどない町内会や、エネルギー投資ばかりの多いPTA活動からは早めに撤退するのが賢明なのは明らかなようにも見えます。
 しかしそれにも関わらず、人々が雪崩を打って町内会から離脱したとか、PTAが崩壊状態だとかいった話が聞こえてこないのは、私たちのほとんどがこの「資本主義下における正しい投資行動」をとらなかったからに他なりません。
それはなぜでしょうか?

 ひとつには私たちが集団行動をとらないことによるリスクを恐れるからでしょう。
 人類はもともと“数”によって種を維持してきた生き物です。イワシやニシンが群れを成して動くように、群れの周辺で多くの仲間が殺されても中心部は生き残れるようにまとまって移動し、生活してきました。したがって群れから離れることには本能的な警鐘が鳴るのです。多少苦しいことはあっても、集団から離れてはいけないと、体のどこかが抵抗します。

 もっとも町内会などから遺脱することについては、具体的・現実的で意識できるリスクもあります。
 例えば、他人から煙たがられたり疎んじられたりすることに、生活上のメリットはありません。必要な情報が遅れたり届かなかったり、あるいは“なくてもいいがあればもっと楽になったり豊かになったりできる支援”といったものが得られない可能性もあります。

【非常時のリスク、日常のリスク】

 東日本大震災の時も、被害があまりに広範囲かつ甚大だったため、公的支援が非常に遅れた地域がありました。島嶼部も入れると一週間近く何も届かなかった場所もあります。そうしたところで自発的に機能していたのは、町内会を基礎とした自主組織だけでした。日常的に働いていたものなので、非常時にも動きが早かったのです。

 もちろんそんな状況でまさか「アイツは町会費も払っていないし、当番活動もしてないから食料を渡すことはない」などと言い出す人はいないと思いますが、誰かがそれを思い出せば、支援の動きは鈍るかもしれません。
 そうではなくても、清掃活動のたびに顔を合わせ、「最近どうだい?」「孫が生まれたんだってね」とか話している相手と、顔は知っているが何者か分からない程度の相手とでは、やり取りする言葉の量が違ってきます。量が違えば質の高い情報と出会う可能性も少なくなります。
 一見無駄と思われる言葉のやり取りに重要な情報が含まれているということはよくあります。地域からの離脱者その情報を逃しかねない。逃した情報がその後を大きく左右する場合も、少なからずあるはずです。

 PTAにしても抜けることは簡単です。しかしその後、PTAと名のつく活動のすべてとの距離感が難しくなります。
 例えば参観日の後で開かれる「学級PTA」はどうでしょう? 実質的には「保護者と担任の懇話会」ですから保護者であればだれでも参加できるものですが、もしそこに本会から分配された茶菓子、などというものが出ていたら問題になります。その代金はもとを質せばPTA会費だったりするからです。
 もちろんそのたびに確認して経費を支払うという方法もありますが、これにはエネルギーがかかるでしょう。学校と掛け合ってPTAという扱いをやめてもらい、「学級保護者懇談会」という名前に変えた上で茶菓子など出ないようにすればよいのですが、その交渉にもエネルギーがかかります。結局、普通に会費を払って、必要な役を果たしていた方が、楽だったりもします。

 PTAと名のつく一切に出席しないという選択肢もあって一番楽にも見えますが、それはそれで情報の入ってこない恐ろしさにまったく気づいていない人のすることです。

 私は長いものには巻かれろと言っているのではありません。
生きて行く上で自然にまとわりついてくる人間関係を、無慈悲に断ち切るにはそれなりの覚悟が必要だという話です。

【楽園などない】

 マスメディアは戦後一貫して「個人」と「自由」と「民主主義」とを支持し、封建的なもの、家父長主義的なもの、あるいは集団主義的なものに抵抗してきました。
 町内会やPTAに対する懐疑も、産む権利の問題も、結婚制度や家族制度そのものに対する疑問も、その延長線上にあるものです。
 しかし家も家族も地域組織も、あるいはPTAや企業や企業内組織はすべて自分を守るというセーフティネットの側面を持ちます。

 私はこの記事を書き始めるにあたって、そうしたセーフティネットに積極的に参加し、強め、拡充していくことを自助努力と考え、今や人々はそれを辞めようとしている、そうした努力なしですべてを公的福祉に求めるようになった、それでいいのだろうかという方向で話を進めるつもりでいました。
 しかしこうして書いてみると実態はまるで違っていた――。

 主として経済対策の側面からベーシックインカムのように、最初から無条件に、国民に生活資金が渡される仕組みまで考えられるようになった時代ですが、しかしまるっきり仕事をしないで遊んでいればいい時代が来るはずもなく、どんな問題にも政府が適切に対処してくれる時代も来たりしません。少なくとも私や私の子供世代・孫世代が生きているうちはそうはなりません。

 結局、現在手持ちのセーフティネットを離脱してしまうと、政府が補いきれない部分はすべて自分一人で賄わなくてはいけなくなります。
 友人をおろそかにし先輩後輩といった関係もうとんじ、家族を持たず、地域にも自主的組織にも頼らない生き方。それはとんでもなく高い能力と強靭な神経によってしか成し遂げられないものです。
 しかしそうした生き方こそ、人間らしい生き方だとメディアは訴えています。

 私たちにできるか?