かつて酒の路上飲みは、日本人にとってもあたり前ではなかった。
コロナ禍以前の日本人はもっと恥を知る人たちだった。
ただしそれは平成の話で、昭和まで遡るとそうでもない。
それを現在まで高めたのは、日本人のたゆまぬ努力のおかげだ、
という話。(写真:フォトAC)
【日本だって路上飲みは当然ではない】
先週の金曜日は「諸聖人の日(別名万聖節)」でした。つまりハロウィーンの翌日。前の夜の渋谷を中心とする界隈はどうだったのでしょう。
ハロウィーンの夕方、6時から8時くらいまでのニュースでは渋谷駅周辺に仮装した人は少なく、落ち着いた雰囲気だという話でしたので安心していたのですが、翌朝ニュースを見たら10時過ぎからどんどん人が集まって来て、路上飲みをしたり騒いだりと、なかなか大変だったようです。
仮装した一部の日本人は、どこかで集合して集団をつくってから駅前に現れたとかいいますから、なかなか臆病な人たちです。渋谷駅周辺では路上飲みが許されているといった間違った情報を信じた(あるいは信じたふりをした)外国人も大量に繰り出して、一種異様な雰囲気もあったようです。
もちろん今年も昨年に引き続き渋谷駅近辺での路上飲みは禁止されていましたが、その昔も平気で堂々と酒が飲めたわけではありません。路上で飲んでいたのはすでに酔いが回って自制心のなくなったサラリーマンか、懐が寂しくて飲食店に入れない貧しい人たちだと相場が決まっていました。裏を返せば自制心やお金のなさを標榜していたみたいなもので、決して誉められた話ではなかったのです。その点では禁欲的なキリスト教の伝統を持つ欧米とあまり変わりないのかもしれません。空き缶の路上放置も、酔ってなおコソコソとするものであって、当たり前に置いたわけではなかったのです。
それがコロナ禍のために、狭いお店で長時間飲食を共にするのは心配ということで、一気に路上に出て来た、というのが実際です。コロナ禍以前の日本人は、もっと礼節を重んじ、恥を知る人たちでした。
【酔えるのは安全が前提】
ただし欧米人が絶対に路上飲みをしたり屋外で酔っぱらって寝たりしないのは、そうした道徳的な配慮もさることながら、おそらく泥酔が危険行為だからでしょう。私もローマの地下鉄でスマホをすられたことがありますが、酒を飲まずに意識がしっかりしていてもその始末ですから、飲んでフラついているようではどうなるか分かりません。命までは奪われることもないと思いますが、あという間に丸裸です。
かつて渋谷駅前で路上飲みができたのは、さらに酔っぱらって眠り込むこともできたのは、あるいは女性がひとりで歩けたり、時には酔っていても歩いて帰れたのは、私たちが作り上げた日本の街が高度に安全な社会だったからで、酔った群衆が花火を鳴らし、けたたましい音を立てるバイクや車が突っ込んでくるとなると、それまでできたことができなくなるのは、渋谷や新宿の例を見ればわかることです。
満員電車や駅中など、人の沢山集まる場所の静寂さや清潔さ、人々が整然と集まり、道を譲り、順番を守り、そうした秩序が生み出す「急がば回れ」的なスピード感、そうしたものもすべては、今はこの国独自のもので、本来は世界に広まっていくべき高度な文化であり文明です。しっかり守って行かなくてはなりません。
【昔から日本人が立派だったわけではない】
「悪貨は良貨を駆逐する」と言い、貨幣はまったくその通りなのですが、文化や文明は必ずしもそうではありません。水が低きに流れるように、文化や文明も高い位置から低い方へ流れることがあります。
私が子どもだったほんの半世紀ほど前の日本人は、今のように道徳的だったわけでも美しかったわけでもありませんでした。
先ほど私は「コロナ禍以前の日本人は、もっと礼節を重んじ、恥を知る人たちでした」と言いましたが、それは半分以上ウソで、「コロナ禍以前」も昭和まで遡ると、私も含め、かなり恥知らずの大人たちが相当数いたのです。
夜の繁華街などには常に泥酔者がふらついていて、彼らを一晩収容する専用施設「保護室(通称トラ箱)」も全国の警察署に置かれていました。特に人数の多い東京警視庁では、各署内のトラ箱以外に専用の「泥酔者保護所」を都内の四か所(港区麻布の「鳥居坂」《1960-2007年》、台東区日本堤《1960-2001年》、三鷹《1970-1989年》、早稲田《1977-1993年》)箇所に設置し、最盛期には年間一万人以上を保護したようです。その専用トラ箱も、利用数が減ったために最後まで残っていた鳥居坂保護所が2007年末に廃止されて歴史に幕が下りたようです。日本人が路上飲みや泥酔に対して厳しくなったのは、平成に入ってからのことです。
昭和以前の日本人の不道徳を例に挙げれば、枚挙にいとまがありません。繁華街の路上にはタバコの吸い殻が無数に落ちていて、弁当の空き箱や飲み物の空きビン空き缶もいくらでもありました。長距離電車やバスを降りるとき、ゴミは座席の下に押し込むのがしきたりでしたから、長旅のあとの客車はゴミ溜め同然でした。
駅のプラットホームには痰壺(たんつぼ)が置かれていて、通りすがりのオジサンたちが「ゲーッ、ペッ!」と醜い音を立てて痰を吐き捨てていました。それでも路上に吐くよりはずいぶんマシだったと言えます。
そんな風景を毎日のように見ている子どもたちの心も一部では荒んでいて、今では信じられないことですが、校内での刃傷沙汰も稀ではありませんでした。当時の中学生は鉛筆を削る必要もあって「肥後守(ひごのかみ)」という名前の刃物が手放せなかったのです。それが喧嘩の際に持ち出される。危険極まりない時代でした。
それがなぜこれほど安全できれいな気になったのか――。
【ハード面の充実】
もちろんそこには政府と国民のたゆまぬ努力と広報がありました。
今では忘れられていますが、学校から「肥後守」をなくすために全国のPTAが予算つくり鉛筆削り機を購入し、各教室に配置し始めたのです。路上のポイ捨てをなくすにはポイ捨てできないような美しい街並みが必要だと「花いっぱい運動」はあっという間に全国に展開されました。家庭ごみは相当な時間と予算をかけ、合理的な回収システムをつくり全国に広めました。高温多湿で病気の発生しやすいこの国は、衛生面に金を使うことが幸福の基礎でした。それが前提でほかのことは後回しでもよかったのです。
公衆衛生のハード面はこうして積極的に整備されて行きましたが、ソフト面はでどうだったのでしょう。
(この稿、続く)