カイト・カフェ

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「消えたセーフティネット」〜自助努力なしで生きる時代の子どもたち1

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カール・シュピッツヴェーク 「青年時代の友人」 (1855)

【消えたセーフティネット=友人】

 かつて失業すると同時にやらなければならないことが二つありました。ひとつは職業安定所に行くこと、もうひとつは友だちや先輩のところを渡り歩くことです。どちらも仕事をあっせんしてもらうためです。昭和20年代から40年代にかけてのことですから、私の父親世代以上、はるか昔のことです。黒沢映画なんかにもそうした場面は出てきたような気がします。

 公的支援が不十分で、今よりも縁故採用が多かった時代です。事業者にしても、安定所から回されてくるどこの馬の骨か分からない人より、紹介者が責任を持ってくれる縁故採用の方が安心だったのでしょう。母の思い出話にも「お父さんは○○さんを市役所に入れた」とか「△△さんは、お父さんの紹介でどこどこに入った」といった自慢がしばしば出てきました。
 友人関係、先輩後輩関係は、別な言い方をすれば昔のセーフティネットだったのです。

 ところが現在はコンプライアンスだかアカウンタビリティだか知りませんが(どっちみちこういう英語は嫌いだな)民間企業でも縁故採用を嫌い、したがって失業した時の命の綱は職安だけになってしまいました。景気の良くなった今はあまり聞きませんが、ひところ「大企業をリストラされて現在は路上生活者をしている」いった極端な転落は、昭和の中期以前はなかったものでした。

【隣近所】

 また母の話ですが、私が子どものころ過ごした市営住宅は二軒棟続きの長屋形式で、お隣は母よりも若い夫婦でした。その奥さんの方が母のことを慕って「姉さん、姉さん」となつくのはいいのですが、しばしば「姉さん、お塩貸して」「姉さん、砂糖が切れてるの」とか言って少しずつ私の家から持ち出してしまうのです。まず返してもらうことはないのですが、それでも母は気持ちよく渡していたようです。

 そう言えば樋口一葉の日記の中にも面白い話があって、一葉が死ぬ思いで借りてきた金を、母親が一夜のうちに隣近所の人に貸してしまうのです。
 一葉はその直前、東京一の金貸しと言われる男のところに飛び込みで借金に行って、「オレの妾になるなら貸してやる」と言われ、憤然と席を蹴って帰ってきたりしています。そのあとでどこからか借りた金ですから、そうとうに苦労して手に入れたものです。
 それをそっくり又貸しされて激怒するかと思ったら、一葉は、
「それはおっかさん良いことをされた」
とか言ってまた金策に駆け出したりするのです。

 近所づきあいと言うのもこれまた当時のセーフティネットでした。私の家のお隣さんは塩も砂糖も帰してくれませんでしたが、どこかで誰かを助けていたに違いない、根拠などまるでありませんが、そんなふうに感じていたのかもしれません。樋口一葉の頭の中にも、いつか助けてもらった、あるいは助けてもらう日のことがあったに違いありません。

【結婚】

 「まだ結婚しないの?」「赤ちゃんは?」
 いずれも今日では超一級のセクハラ発言とされるものです。今日もネットニュースをパラパラと見ていると、子どもを持たない決心をしている夫婦にセクハラ発言を繰り返す田舎のオジさんオバさんたちの話が批判的に書かれていたりしますが、昭和の中期以前は結婚も出産も重要なセーフティネットだったという歴史的経緯があります。

 「ひとり口は食えないが、ふたり口は食える」という言葉があるように、単身世帯と言うのは何かと不経済です。ふたりで暮らせば冷蔵庫も一台、洗濯機も一台、その他家財道具の多くはひとつで済みます。
 日常生活においてもふたり世帯ならキャベツ一個を腐らせずに消費できますが、別々なら1/2個がせいぜいでしょう。そしてそれぞれ1/2個のキャベツを買うより、ふたりで1個買う方が基本的に安上がりです。光熱費だって基本料金は確実に半分です。

 現在の給与水準ではあまり問題になりませんが、昭和中期以前の貧しい若者は結婚して初めて経済的に楽になることができました。“結婚は生存するための最低条件”と言ったら大袈裟ですが、普通に生きて行くためには必要条件でした。
 ちなみに「結婚して妻を養い始めたら、生活水準が下がるのでは」と思われる人もいるかもしれません。しかし専業主婦が当たり前のように思われたのは、日本史上昭和の中期~後期にかけてのごく短い期間だけで、有史以来、共稼ぎが原則です。
 「ふたり口は食える」のであって、生活水準が下がることはありません。

【出産】

 ここで三回目の登場ですが、母の思い出話の中で一番多く登場するのが、子どものころいかに兄弟姉妹が両親を助けたかという話です。
 私の祖父母は自営の帽子職人でしたから、材料の仕込みとか製品の納入とか、あるいはミシンの端からウインナーソーセージみたいに繋がって出てくる帽子のひさしを、ひとつひとつ切り離して数える仕事も、みんな子どもたちがやりました。
 子どもは家庭内で労働力の一部として、金を稼いだのです。しかし稼ぐ割には使わなかった――今の子どもと違っておもちゃを欲しがるでもなく、学習塾にも習い事にも行かず、家族旅行も外食もありませんでしたから、子育てなんてまったくお金がかかりません。
 「貧乏人の子沢山」といえば貧しくて何の楽しみもないから次々と子を作ってしまったみたいな捉え方をされますが、そうではなく、子どもが親を食わせる時代だったのです。

 無著成恭の「やまびこ学校」などを読むと、農繁期に学校に出してもらえない子どもに話はいくらでも出てきますし、昭和21年前後、教師の再教育のために行った学校五日制が廃止になったのも、土日二日間働かされた子どもが、月曜日にボロボロになって登校するので勉強にならない、という事情があったと聞いています。
 そのくらい子どもは働かされたのです。

 いずれにしろ結婚も子どもも、生きる手段――人間の生存本能と深いかかわりをもつものでしたから「して当然」「産んで当然」という思いは、日本人の心の奥深くに根付いてしまったのでしょう。
 もっとも類人猿の時代まで遡れば、地上最弱の裸の猿=人間は、集団で暮らし、殺される数よりもさらに多くを産むことで、種と自分自身の生存を確保する戦術を取りましたから、その意味では人類すべてに共通するものだったのかもしれません。

 しかし時代は変わりました。
 文明社会というのは、本来個人が行っていたことを誰か(機械・道具、組織、制度など)にやってもらう世界のことを言います。さらに重ねて福祉の充実が叫ばれて多くが実現してくると、セーフティネットも個人で用意する必要がなくなります。少なくとも昔のような強固なネットワークを構築しなくても、何とかなる時代が来てしまったのです。

(この稿、続く)