カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「古き良き時代のセーフティ・ネット」~大雪の朝に③

 私は田舎の市営団地で生まれ、中学生の半ばまでそこで暮らしていました。今思い出すとその生活は、映画「Alweys三丁目の夕日」にほんとうによく似たものでした。

 二軒一棟の平屋の建物が12棟ほど集まった新開地では、車のほとんど通らな道路は子どもの遊び場で、年じゅう十数人がワーワー走り回っています。それをどこかのお母さんがさりげなく見守っています。別に当番制でやっているわけではありません。自然とそうなるのです。
 夜になると小さな子どもがしょっちゅう親に怒られて家から出されていましたが、近所の口利き婆さんが頃合いを見て助けに入り、関係もないのに一緒に謝ってくれたりするのです。
 隣の若い奥さんは私の母のことを「姉さん、姉さん」と慕ってよく醤油だの砂糖だのと融通してもらっていいに来ていましましたが、それを返してもらったことはほとんどないと思います。
 私の家の裏にあるお宅は菓子の仲買のような仕事をしながら細々と小売りもしていましたが、そこへ駄菓子を買いにきた人に向かって、まだ幼児だった弟は「アー、アー、アー、アー」と声をかけおすそ分けをねだります。すると客は決まって「おやおや、ここはまるで関所だね」とか言ってカリントウの一握りも置いていくのです。
 地区の運動会では日ごろ顔を合わせることの少ない男衆も張り切って参加し、仮装行列では乙姫様の扮装で練り歩いたこともありました。子ども心にもかなり気持ち悪いものでした。

 もっとも人間関係が濃いと面倒なことも多く、母が街角まで叔父を送っていってそこで立ち話をしていたら「街灯の下でキスをしていた」といった噂が立ち、母を激怒させたこともありました。親同士で何かのケンカがあったらしく、私が一番の仲良しとの遊びを禁じられたこともあります。しかしそれも私たちのあずかり知らぬことでした。

 そのころ、人は職を失うとまず先輩や友人を頼ったものです。職安という仕組みはありましたが公的な機関に頼るより仲間に頼む方が確実だったのです。たいした伝手はなくても人々は何とか当座の仕事ぐらいは見つけて来てくれました。
 商売がうまく行かなくても商店街には常に最低限の生活を保障する仕組みが整っていました。どんな小さな店でも、地域に従順なら消えてなくなるということはなかったのです。
 小さな住宅地もサラリーマン社会も商店街も、何らかの形で繋がり合い支え合っていました。それは現代の言葉で言えばセイフティーネットです。

 しかし現代は違います。人は企業をリストラされるといくらもしないうちにホームレスになっていたりしまいます。独居老人の孤独死だの餓死家族と言った話はもいかにも現代的です。個人が個人として最大限に尊重される以上、ホームレスも孤独死も尊重されるようになっています。

 さて、町内会やPTAも過去の遺物といった一面を持ちます。それはもともとたいへん自主的・自助的で、互助的な組織でした。ところがいまや一部の人々にとっては単なる負担、大きなお荷物なのです。

 東日本大震災際、罹災直後であるにも関わらず生活が何とか回ったのは、多くの地域で町内会や自治会などの組織が温存されたからです。学校によってよく教育された人々はその組織を基礎として支援物資の受け取りや配分、避難所の管理運営、医療との連携などを行うことができました。しかし同じことが都市の町内会や自治会の存在しないようなところで起こったらどうでしょう。

 私は日本人の力を信じますからそれでもかなりのことができると思います。
 ただし被災の日まで地域に何もせず、学校運営に何の貢献もしなかった人々を、被災仲間は積極的に支援し、その要望に耳を傾けようとしてくれるでしょうか?

 そのとき旧来の人間関係を断ち切ってきた人たちは、そうした古いつながりに頼ることなく、独力で生と生活を確保しようとするのでしょうか?

(この稿、終了)