カイト・カフェ

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「死ぬまでをどう生きるか」〜60歳を過ぎての人生設計は難しい

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ハンス・アンデルセン・ブレンデキルデ 「疲れ果て」(パブリックドメインQ)

【パンツの中の磁石】

 間もなく91歳になる母が神経痛らしく、右足の付け根あたりをものすごく痛がります。かかりつけの医者が“念のため”と言った感じでMRIを撮るように勧めてくれたので、近くの大病院に連れていってきました。
 予約で行ったので短時間で終わるつもりだったのですが、思わぬ事態が発生します。なんと下着が磁石入りで、待機室に戻されてしまったのです。血行を良くして凝りや痛みを軽減するというパンツで、母も知りませんでした(というかすっかり忘れていた)。MRIというのは「磁気共鳴画像法(Magnetic Resonance Imaging)」の略で、金属はすべてダメ、磁石なんてもってのほかなのです。
 ところが下着を脱いでもどるだけなので1分とかからないはずだったのに、年寄で動きが鈍いと思われたのか、その前に次の患者を入れられてしまいました。
 それで腹が立ったという話ではありません。そのとき母の代わりに入った老人の姿に、私が強く心を動かされたという話です。

【老人の命】

 それはストレッチャーに乗せられたほんとうに年老いた老人です。私は男と見ましたがほんとうは女性だったのかもしれません。シーツから突き出た顔は骨と皮ばかりに痩せていて、眼窩は深く落ち込んでいます。髪は真っ白で梳かした様子もなく、爆発的に広がっています。量は少なくしかし長い。
 付き添ってきた看護師は5名。一人が点滴スタンドを持って床を滑らせ、一人が酸素ボンベを運び、三人がストレッチャーを動かす、そうでないと狭い待合室から検査室のへの出入りが難しいからでしょう。
 そのまま目で追うと、ドアが開きっぱなしで老人が検査台に乗せられるところまで見えたのですが、パジャマから出た手足はそれこそ骨の継ぎ目も見えるくらいにやせ細っていました。

 私の動揺は――、誤解を恐れずに言えば、「それでも人間は生きて行かなければならない」というものです。

 まったく動けない、何もできない。意思を表すことさえできるかどうか分からない、そんな状態でも、しかし人間は生きて行かなければならない、そう簡単に死ねない。検査も受けなければならない、必要な治療も受けなければならない――。
 死ぬというのは容易なことではありません。

 その次に考えたのは、そんな状態であっても生きていてほしいと願う家族がいるかもしれないということです。生活という意味では何の役にもたたない老人を必要としている人がいる、その人たちが老人を支えているのではなく、老人の命がその人たちの心を支えている、そういう可能性です。

 しかしもう一度本人の側に立って考えた時、その老人の何もできない命はどういう意味を持つのかやはり分からない。
 深く考えさせられる問題です。

【60歳を過ぎての人生設計は難しい】

 普通のサラリーマンにとって、人生設計というのは定年退職までは簡単なのです。
 小学校に入った段階で6年後の卒業は見えています。中学校の三年間が終わると高校へ行くか行かないかは選択の問題です。途方に暮れるということはありません。
 社会人になってからも、60歳までをどう生きるかが問題であって、計画は狂うことはあっても立たないということはありません。定年が見えてきたらカウントダウンです。
 ところが仕事をやめ、老人として生き始めると急に計画が立てにくくなるのです。

 とりあえずいつまで生きられるのかが分からない。したがって多少の蓄えはあっても使い方が分からない。使いすぎて資金切れになるのは困りますし、かと言って多くを残して死ぬのもシャクです。
 何か新しいこと始めようと思っても、それが生かせるかどうかも分からない、新しい機械や道具を買うこともできない、そんな状態なのです。

 そう言えば娘のシーナが何かで読んだこんな話をしてくれたことあります。
「ある人が定年で退職したとき、ふとバイオリンを習いたいと思った。しかし今から始めたところでどの程度までできるのか――そう考えたらやる気がなくなってついにバイオリンに触れることはなかった。
 それから30年。90歳で今も元気に暮らしている。あのときバイオリンを始めていれば30年のベテラン奏者だ。5歳の子が35歳まで続けるほどにはうまくならなかったろうが、それにしても惜しいことをした」

 確かにそう言うことはあるなと思いながら、しかし私も、何もせずに年老いていこうとしています。