(メアリー・カサット「青い肘掛椅子の上の少女」 GATAGより)
以前にも書きましたが10代から20代にかけての私は非常に傲慢で、そのくせ臆病で、いつか社会を見返してやるという思いと、このままの非力ではとてもではないが世の中には太刀打ちできないといった思いの狭間で、激しく揺れ動いていました。
いま考えるとほんとうに愚かで繊細で、神経質で夢想家だったのです。
ですから大人になってからの私は、そのころの自分がずっと許せなくて、いつも腹を立てていたのです。
《いつか会ったら絶対に殴ってやる!》
けれどこうやって老人の入り口にまで齢を重ねると、自分と入れ替わりに長い人生を生きようとする若者に対して、少しは優しい気持ちになれるようになってきたのです。
今だったらあの頃の自分に、きっとこんなふうに話してあげることができる――それが本日のお題です。
【社会に生きることに不安なキミに】
さて、いまのキミは“自分には無限の能力と力がある”と信じている、それにもかかわらず社会に怯えている、それはなぜだろう?
思うにそれは、それはキミ自身と社会の関係が分かっていないからだ。
いまキミが持つ自信の源は、今日までキミが学んできたこと、果たしてきたことの蓄積だ。
キミはまだ十分子どもだから一昨年より去年、去年より今年と、毎年毎年ずいぶん知識も広がり知恵もつけてきた(老人にはあり得ないことだ)。それはまさに等差級数のグラフのように一直線に伸びてきた。
キミが間違っているのはその延長線上に、大人たちの世界を思い描くことだ。だから苦しくなる。
小学校に入学してから中学・高校と成長してきた、同じ勢いで20代・30代も伸びて行くとしたら40代・50代の知力・思考力というのはとんでもなく大きい、それに比べたら今の自分はなんと非力なのか、なんと頼りないのか、そう考えて茫然としている、それがいまのキミの状態だ。
ところがどっこい、その想定自体に間違いがある。人間はいつまでも等差級数的に伸びていくものではない。突然止まる。
身長がそうであるように、ものすごい勢いで伸びていったかと思うと急に成長の度合いが緩やかになって、やがて止まる。いや、止まるなんて言ったら大人に失礼かな、止まったかと見えるほど小さなものになる、そんなふうに言っておこう。
私(つまりキミ)の場合は、たぶん25歳か26歳のころからその停滞期に入った。しかしそれでよかったのだ。その停滞期はずいぶんと大きな意味があるのだから。
【医者と味噌は古い方がいい】
「医者と味噌は古いほどいい」っていう言葉があるよね。
医者のことは分からないけど、味噌というのは煮て潰した大豆と、塩と麹を混ぜて寝かせてつくるものだ、10か月から1年くらいのあいだかな。
その間、どんなにおいしそうに見えたって食べるわけにはいかない。ある程度発酵が進まないと味噌は味噌じゃないからだ。
キミはいままさにその「10か月か1年くらい」たったころの若い味噌だ。たしかに食べられる、社会人として使える、しかし2年寝かせた味噌、3年寝かせた味噌に比べたら、塩がしっかり馴染んでおらず味に深みがない、うまみが十分じゃない、そんな説明で分かるだろうか。
あるいは、ストラディバリウスとかグァリネリウスといった1本何億円もするようなバイオリンの名器については聞いたことがあるよね。いずれも300年も400年も前に作られた楽器だけど、今後そんな素晴らしいバイオリンは二度と出てこない、今あるストラディバリウスやグァリネリウスを使いまわしていかなければならないのか、というとそうではない。
今この時間も、18世紀や19世紀につくられた若いバイオリンが、誰かの手で奏でられながらストラディバリウスに匹敵する名器になる日を待っている。楽器には長い長い熟成の期間が必要なのだ。
今後200年たっても300年たってもバイオリンの名器はなくならない。それどころかだんだんに増えていくはずだ。ストラディバリウスやグァリネリウスが役割を終え、消えていく日まではね。
今のキミはできたての味噌であり作り立てのバイオリンだ。だからいま、社会に出ても「ぼくだって先輩たちと同じ社会人だ」と胸を張ってもいい。一応、勤まっていく。しかし同時に「味わいはまだまだ不十分だけど」という謙虚さも持っていなければならない。同じ土俵で同じ値段で売れるというわけにはいかないからね。
いずれにしろ恐れるに当たらない。キミならきっとやっていける。
(この稿、続く)