人の人生を大きく狂わせる心の問題。
しかし原因はほんの些細なことなのかもしれない。
些細なことで重大な結果がもたらされる――。
だとしたら大事なのは、原因追及ではない。
という話。(写真:フォトAC)
【ムカデはなぜ歩けなくなったのか】
今週はまず「植物といのは非常に単純で分かり易いもので、畑は素直だし作物はウソをつかない、だから心安くいられる」という話をし(15日火曜日)、「人間の能力は『わかる』『できる』『すらすらできる』の3段階を経て成長するものであり、一度獲得した能力は容易に消えない」という話もしました(16日水曜日)。ところがこれだけだと植物の成長も人間の成長も同じになり、極めて単純で分かり易いものとなるはずです。それなのに実際はそうならないのは、「人間の場合、ときに技能が一瞬にして奪われることがあることがある」からだ。イップスがそのひとつであり、寓話「ムカデのジレンマ」見られるような些細な躓きが命にかかわる場合もある」という話をしました(17日木曜日)。
意地悪なカエルに「キミはいったい何本もあるその足を、どんな順番で動かして歩いているの」と問われたムカデが、結局歩けなくなって死んでいく物語は、「世の中には深く考えてはいけないことがある」という教訓を突きつけているのではなく、「ごく当たり前にできてきたことが突然できなくなる場合がある」という事実を見せているのです。
私がこの物語に心を寄せるのは、何人もの不登校の子を見て来て、あるいは先生や保護者の中にある適応障害やうつ病の事例を見て来て、その全部がとは言いませんが多くの事例の中に、「ムカデのジレンマ」のような小さな躓きに始まり、生活全般に影響するような深刻な状況に陥った例が、たくさんあるように思うからです。
【小さな原因で大きな現象が起こる心のバタフライ・エフェクト】
もちろん私は心の専門家ではありませんから、以下について専門の方が「まったく間違っている」とおっしゃるならその通りかもしれませんし、百害あって一利なしの話なのかもしれませんが、「素人が専門家の話を聞くとこんなふうに理解する」というひとつの事例として聞き取って頂ければけっこうです。
大事な点の第一は、原因と言っていいようのものが、実はとても小さなものなのかもしれない、ということです。大災害や肉親の死によってうつ病を発症したという例はたくさん聞きますし理解できるところですが、多くの不登校や適応障害(どちらも同じと言えば同じですが)は、日常的な、普通の生活の中から始まっているように思うのです。いじめもあればパワハラもあり、職業上のプレッシャーといったこともあるにしても、そのほとんどは他人から見れば些細なことで、本人から見ても昨日までは乗り越えられたその程度のもの。それが今日は些細でなくなり、乗り越えられない小さな壁(小さいのに乗り越えられない壁)になって立ちはだかっている、そんな感じではないかと思うのです。
世の中の問題の多くは、事象が発生したら原因を探り、分かったらそれを修理するか改善するかあるいは排除すれば解決できると考えられています。ところが心の問題はそういうわけにはいきません。
担任を理由とする不登校も教師が変われば収まるというわけにいきませんし、いじめを原因とする場合も加害者と言われる子どもたちが謝って二度と手出しをしなくなっても、翌日から登校できるわけではありません。行けるようになっても大半は長持ちせずに腰砕けです。大人でいえばストレスの原因となった重要な仕事から外されても、すぐに元気になってもとに戻るとは行きません。それは原因が深く根深いからではなく、むしろ普段の生活や普通の人なら見過ごしてしまうほど小さことで、学校に行けない、仕事に行けないといった大きな事象がおきているからです。小さいのに大きな現象を引き起こしたのだからむずかしい。
ムカデくんの場合は「その足をどんな順番で歩いているの?」と言われた、その程度のことで歩けなくなりました。
【大切なのはいち早いリハビリ】
私が不登校や適応障害について聞くたびに「ムカデのジレンマ」を思い出すのは、ムカデくんに足の動かし方を教えてもそれで歩けるようになるとはとても思えない、そうした事情があるからでもあります。もちろん再び歩けるようになるためには「足の動かし方」という方法論は必要ですが、ほんとうに大切なことはリハビリです。ムカデくんが地面を叩いて嘆き、大声を上げて意地悪ガエルを呪っている場合はムリでも、足の萎える前に、一刻でも早く歩く練習を始めなくてはなりません。
不登校の問題に関しては、ほんの数十年前まで、「学校のことは一切触れてはいけない、学校の『が』の字も意識させてはいけない、同級生や担任教師の訪問などとんでもないことだ」と指導されたことがありました。大人の適応症障害の場合は今も医師から「職場からできるだけ離れなさい。職場との連絡はいっさい断ちなさい。職場の同僚と会うなんてもってのほか」と指示が出される場合が少なくありません。
しかし適応障害なるような人は仕事がすべてだったような人ばかりです。他にやりたいことなど普通は持っていません。職場以外に友だちはいるにしても、日常的に話のできたのは職場の仲間たちです。そうしたものをすべて断ち切ってマンションの一室にひとり籠って、あるいは家族ごと孤立して、じっと己の心の中を覗いていてそれで再び前に進めるようになるとはとうてい思えないのです。
子どもはなおさらで、学校と学校でつくった人間関係は、彼らの持つ“社会”のすべてなのです。そこから遠ざかったら何もできないじゃないですか。
【私には宿怨がある】
私は昔から心に絡む仕事をしている人たち、精神科や心療内科の医師、心理カウンセラー、心理療法士たちと仲良くありません。多くの場合、意見が合わないのです。私の手元に置いておけば何とかなった子どもたちを、丸ごと奪っていっさい連絡させなかった、その上で治さなかったという30年来の宿怨があるからです。
しかし今も、原因となった場所から離れなさい、連絡を絶ちなさい、一切考えないようにしなさいという指導をしたまま放置するよう医師なら、やはり私はさっさと変えるべきこと思っています。こころの病気以外で三か月も通院して、何の改善も見られないとしたら医者を変えるでしょ、普通は。