カイト・カフェ

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「それでも民主主義を擁護する」~統合から分断へ③

 日本だって元を質せばバラバラな国だった。
 それをまとめたのは、ひとつには国語だが、
 もうひとつは無私無欲な政治家・官僚たちの存在である。
 これが世界のモデルになる。

という話。

f:id:kite-cafe:20200205085334j:plain(「新緑と地球儀2」 PhotoACより)

【別荘地の民=日本人】

 昔、イザヤ・ベンダサンという作家は「日本人とユダヤ人」という本の中で、ユダヤ人を“ハイウェイの民”、日本人を“別荘の民”と例えて、東アジアの海の中で安穏と歴史のページをめくり続けた日本を羨んで見せました。

 確かに歴史を紐解くとこの国は常に幸運に恵まれてきました。
 モンゴル来襲はだれでも思いつく事例ですが、例えば16世紀、南蛮人が日本でも最も災害の多い九州を本拠地としたことも(熊本地震などで被災された方には申し訳ないのですが)、日本が本格的な植民地とならずに済んだという点では幸運なことでした。ポルトガル商人にとって、とてもではありませんが落ち着いて仕事ができる国ではないと思われたのです。

 第二次世界大戦終結があと1カ月遅れていたら、日本の北半分は今日の北朝鮮と同じ状況になっていたでしょう。日本全体を支配する国が合衆国かソ連かという二者択一なら、圧倒的にアメリカでよかったといえます。

 では、そんな幸運の国日本が、二つ三つ、あるいは四つ五つと分裂する危機はなかったのかというと、そうでもないのです。

 

【日本分裂の危機】

 鎌倉時代の始めは天皇家と鎌倉政権、奥州藤原氏がこの国を三分して統治していました。それが固定化していたら、最終的に日本という国が成立するにしても今のイギリスと同様です。
 博多のお爺ちゃんと津軽のお婆ちゃんが遠慮なしに方言でしゃべったらまず話は通じません。三分された日本のまま500年もたてば、言語も文化も全く異なったものに成長したはずです。今の日本とは全く異なった姿になっていても不思議はありませんでした。

 室町時代安土桃山時代も、“統一された天下”という概念はあってもそれが自分の国だという考えはありませんでした。自分の国が他国を占領するだけの話です。
 関が原から大阪夏の陣までの15年間、この日本には豊臣方と幕府方という二つの勢力が併存しましたが、どちらも自分の国と思っていたわけではありません。あくまでも国の集合体が二つあっただけです。

 江戸時代270年間を通して、自分の住まう国が日本で、自分は日本人だと意識していた人は、一部の国学者を除けば皆無でした。どこの国の人間かと問われたら、誰もが「上州だ」とか「薩摩だ」とか答えていたのです。実際に、生涯一度も母国を離れないという人はたくさんいましたし、他国に出る場合は「通行手形」というパスポートを持って行かなければなりませんでした。

 1853年にこの国の鎖国をこじ開けたアメリカが8年後の南北戦争開戦のために手を引くと、フランスは幕府に、イギリスは薩長についてこの国を二分割しにかかります。戊辰戦争という名の日本の南北戦争がもう少し長引いたら、英仏の思い通りになっていたかもしれません。
 しかしそこも堪えた。

 そして新政府は本気で日本という国をつくり、日本人を生み出していったのです。

 

【日本の創設、日本人の誕生】

 日本が日本となり、日本人が日本人となるのはけっこう大変なことでした。
 版籍奉還で版(土地)と籍(人民)をすべて天皇のものとし、廃藩置県で元藩主たちを政治の場から一掃します。それとともに東京弁を基本とした“国語”を定め、“全国の日本語”を単一のものにそろえようと計りました。

 国語は民族の礎です。
 国家組織や土地を失って何百年もたってもユダヤ人がユダヤ人であり続けたのは、ヘブライ語を失わなかったおかげです。宗教も重要な要素ですが、国語を失ってしまえば宗教もすぐに消え、あるいは拡散して飲み込まれるだけです。

 日本の国語は全国の教師たちの熱烈な指導の下で日本国民の間にいきわたり、最終的には昭和に入ってテレビとラジオが仕上げました。関西人のように頑強に抵抗する人々もいましたが、ほとんどの地域は標準語に屈服します。私の生まれ育った地域も、多くの方言を失ってしまいました。
 しかしそれによって「日本」は統一された国家となったのです。

 もしかしたら400年以上前に東京に権力を奪われた大阪や京都が遺恨を持ち、会津は今も薩長を不倶戴天の敵のように感じているかもしれませんが、もはや国が民族的に二分三分される可能性はほとんどありません。

 

【それでも民主主義を擁護する】

 状況や運に恵まれたとはいえ、日本も日本なりに努力をしてこの国を築いてきたのです。その過程は決して民主主義的な場合だけではなかったのですが、特に明治以降の150年あまりは、この国をひとつのものとして守ろうという絶え間のない努力の末に維持されてきたのです。

 明治の元勲たちは大枠として無私無欲の人たちでした。彼らは賄賂を受け取らず、縁故で人事を行うようなことはしませんでした。上位者たちがそうでしたから、部下たちもそれを真似ました。
 こうして日本は独裁者を生まない仕組みをつくりあげ、今日に至っているのです。それが今日の、世界のひとつのモデルになるだろうと私は思っています。

 独裁政治は短期的にはそれで成果を上げる場合も少なくありません。
 政権発足時の毛沢東の中国、朴正煕の韓国、チトー時代の旧ユーゴスラビアなどがその例で、強権的な方法で一気に政策を進めたおかげで、ある国には飢える人がなくなり、別の国は産業を発展させ国民を豊かにし、さらに別の国では自由と平和を享受することができました。
 しかしそこまでです。

 朴大統領は国内に深い亀裂を残し、チトーは自分にしか運営できない国を創り上げために彼が亡くなると同時に国は潰れてしまいました。
 発展という意味ではもっともうまくやってきたかのように見える中国も、今回の新型コロナウィルスの件で馬脚を現しました。
 独裁主義国だから巨大都市の封鎖を一夜で成し遂げることができたという人もいますが、民主主義で言論の自由が守られ、政府が常に有権者の顔色を窺わなくてはならない国だったら、そもそも封鎖しなくてはならないような事態は招かなかったはずです。SARSに続き二度目ですから、反省が生かせない国であることは明らかです。

 民主主義は未熟なシステムで、しかも名誉革命から350年近く経っても成熟しないとことをみると結局はその程度のものなのかもしれません。しかしこれに頼るしかない。
 国民のために無私無欲で働く天才的な独裁者などめったに出てきませんし、出てきたところで永続的に続くはずはないからです。

 私にとって、それが子どもたちに伝えたいことです。