カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「何の取りえもないんだから結婚しろ!」~親心の話①

 先週の土曜日は古くからの友だちとの忘年会でした。
 どのくらい古いかというと、そのうちの一人は中学校1年生の時の同級生ですから、かれこれ半世紀もの仲になります。それに気づいて宴席で紹介し自慢したところ、隅の席にいた二人が笑って、「俺たち60年」とか言い出しました。実家が100mしか離れていない幼稚園の同級生だからです。のちに高校で同じクラスになるのですが、よくもまあ続いたものです。

 半世紀の間、私たちが何を話していたのかと言うと、実にくだらないことばかりでした。くだらない話しかしてこないから、無難に続いてきたとも言えます。
 先週の忘年会は夫婦同伴でしたから自然、話は適齢期を迎えた子どもたちのことになります。
「ホント、まるっきり結婚する気がなくて困っちゃう」
「いったいどういうつもりか分からない」
 それは30年ほど前の自分たちが親にかぶされていたのと同じ言葉で、当時は全く理解できないものでした。「子どもが結婚しないと親が“困る”」というのがわからなかったのです。結婚しなくたって何の迷惑もかけていないじゃないか――。けれど今ならわかります。

 これは半分は親の表現不足です。残りの半分は子の想像力不足で、そのために起ったすれ違いと言えます。ほんとうは親は自分の心の中のものをしっかりと見据え、もっと適切な言葉を探すべきだったのです。それができない親なら、子の方で一所懸命考えるべきでした。しかしそれもできなかった――。

 親のほんとうの気持ちは、子どもに結婚する気配がないのでとても“心配だ”ということです。そう言えばよかったのです。さらに丁寧に言えばこんなふうになります。

 お前がもし「嵐」櫻井翔君だったりゴルフの松山君だったり、体操の内村君だったら俺は言わない。お前がもし綾瀬はるかだったり浅田真央だったり高梨沙羅だったらやはり言わない。あるいは遠いアフリカの奥地で働く看護師だったりアラブの砂漠地帯で灌漑事業に精出す技術者だったり、1日20時間を科学のために尽くす学者だったり人権派の弁護士だったりしてもやはり言わない。

 そういう人たちには個人の幸福を犠牲にしても果たすべき仕事があるし、この世に残せるものがある。しかし申し訳ないがお前は“普通の人”だ。やりがいのある仕事をしているかもしれないが、それはお前以外の人にもできること。お前はこの先、数十年働いてなにがしかの業績を残すかもしれないが、それも遠からず消えてしまうか忘れ去られてしまう、そういうものだ。

 俺もそうだったし世の中の大部分の人間はそういう生き方をしている。
 そうした人間の一人として、俺はお前の将来に「平凡に結婚して子どもを設け、その成長を喜びとして生きる」以上の幸福な姿を浮かべることができないのだ。

 俺たちの人生からお前たちを消してしまったらほとんど何も残らないように、家族を持たないお前の将来が何もないようで恐ろしい。
 真面目に考えての決断ならいいが、ただ時を過ごして平凡な幸せをみすみす逃してしまいそうなお前を見ているとほんとうにやりきれなくなる。胸が苦しくなるのだ。それが“困る”の正確な意味だ」

(この稿、明後日に続く)