「教育の終着点」〜夢の偏差③

 親は子どもの進路に深くかかわるべきだと私は思っています。「お前の人生はお前のものだから自由にやりなさい」というのは物わかりのいい言い方ですが裏を返せば「けれどすべての責任はお前が取るのだよ」ということで、その意味では冷たい言い方ともいえます。相手が30歳、40歳の大人ならともかく、十代以下の子どもに人生の決定権を与えて責任を取らせるのは酷です(20歳の子の場合は、その子の実力によります)。

 私は娘が赤ん坊のころから――正確に言えば結婚するよりはるか以前から「女の子が生まれたら看護師」と思っていたので常にそう言ってきました。高校三年生の夏までシーナは看護師になるつもりでしたがそこでふと立ち止まってしまいます。医療看護系にはなんの興味もないことに気づいたのです。
 そこから悩んで結局教職に着くのですが、「お父さんのおかげで他の子が進路に悩んでいた高一のころに何も考えず、今頃になって悩むことになった」としばらく愚痴られました。それでけっこうです。
 親の願いなんて座標軸のようなものです。そこからどんなに離れたって、子どもが自分の居場所を理解できればいいのです。古来、親の思い通りになる子などほとんどいません。親の意向など最終的に無視してかまわないのですが、子どもが自分の位置を見失うのは困ります。

 息子のアキュラにはそうした示唆を与えずに育ててきてしまいましたが、おかげでいまだに方向が見えません。示唆を与えなかったのは私自身に方針が定まらなかったからです。アキュラには申し訳ないことをしたと思っています。親がフラフラしていたのでは子も定まりません。

 職業を選ぶには三つの基準がある――自分の子どもにも教え子たちにも、私は常にそう言ってきました。
「高い報酬」「余暇を楽しむ時間的余裕」そして「やりがい」です。
 三つそろった仕事というものはありません。特に「やりがい」のある仕事を得た人間はその「やりがい」のために「時間的余裕」を食いつぶしてしまいます。
 また「報酬」と「やりがい」を両立できた人はよほど幸運な人か「報酬」自体を「やりがい」と感じられる人です。さらに「報酬」と「余裕」を両立できる人はよほどの才能か財産に恵まれた人だけです。

 普通は、三つのうちのひとつがかなえば十分です。金のために働くか、余った時間でアフター・ファイブや休日を自分らしく生きるか、やりがいのある仕事に邁進するか。そして三つのうちの一つもなかったら、やはり考え直してみるべきでしょう(ただしそういう人も少なくありません)。

 どんな社会人・家庭人として生活を送るか、それは教育の終着点です。それを見失って、やれ受験だの就職だの言っても意味はないのです。