「教育用語の基礎知識」⑩〜子どもを信じる

 子どもを完全に信じるなど不可能ですしやってはいけないことです。
 何の根拠もなしに、この子はウソをつかないだろう、他人のものを盗ったりしないだろう、人を傷つけたりしないだろう、嫌われるようようなことはしないだろうと信じることはできません。
 この子は一流大学に入ってくれるだろう、家業を継いでくれるだろう、親の面倒を見てくれるだろうなど、勝手に信じたら子が迷惑をします。
 しかしたったひとつだけ信じられることがあります。それは、
「すべての子どもは誉められたい、すごいと言われたいと思っている(特に親から)」
ということです。この一点のみ確実で、信じられることです。
(「特に親から」を括弧付きにしたのは承認欲求が年齢とともに変化し、家族中心から社会へと広がるからです。小学校の低学年だと親からの支持は絶対的なものですが、中学生だともっと社会的な広がりを持ち始め、親が支持しなくても社会が認めてくれればいいやという方向に変化します)

 学校の成績で誉められるのはもちろんいいことです。スポーツクラブで活躍できる子はそれもまた生き生きと生きていくことができます。けん玉がうまい、コマ回しが得意、そういうこともすべて良いことです。中学生くらいだと勉強やスポーツで活躍できなくても、ギターがうまいとかダンスがすごいとか、何かを持っている子はいいのです。
 しかし誉められるような何事も持っていない子、その中で親や教師からしょっちゅう怒られているような子はほんとうに可愛そうです。褒められることが少ないどころではなく、年じゅう怒られている、否定されているわけですから。
 けれどよくしたもので(というか困ったことに)、世の中にはそうした子でも誉めてくれる世界があります。
「おめえスゲエな、先公に平気で盾突けるんだから」
「え? 免許もないの運転できるの?」
「ホント、スゲエや。警察ぶっちぎったワケ?」
「どうやってそのクスリ、手に入れたの? そういうルート、持ってるワケ?」
 そんな調子です。だから彼らは“悪いこと”が好きです。悪い仲間から離れられません。「すべての子どもは誉められたい、すごいと言われたいと思っている」からです。

 不登校の子、引きこもりの子は不幸です。家にこもることが長期化すると、誰からも誉めてもらえない、誉めてもらう可能性のない自分をずっと見続けていなければならないからです。永遠に認めてもらえない、未来永劫誉めてもらうことはないかもしれない、そういう自分と向き合うこと、それはほんとうにシンドそうです。
 けれどそれでも、「誉められたい、すごいと言われたい」という欲望の消えることはありません。

「登校刺激を与えず、子どもを信じ、エネルギーのたまるのを待つ」というときの「子どもを信じる」はそうした意味です。どんな状況下あってもその子は「より良い自分でありたい、誉められたい」という願いを持っている、だから苦悩している、現状をいいものと考えてのうのうと怠け暮らしているわけではない、その想いを信じ、適切に寄り添えば必ず子どもは戻ってくる、そういうことです。

 しかし「適切に寄り添えば」という部分に、誰かが具体的できちんとしたアドバイスや支援をしないと、それは「放置」となってしまいます。放置された子どもは自ら引きこもった子どもよりさらに悲惨です。

 私たちにはすべきことがあります。