カイト・カフェ

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「校則を破れるオレってすごくネ?」~教育の最前線をどこに置くか②

 子どもの中には常に、
 「誉められたい、すごいと言われたい」という欲望が渦巻いている
 勉学やスポーツで誇れない子は、ときにルールを破ることで自己を顕示する。
 ――その子たちから破るルールを奪っていいのか? 
 という話。(写真:フォトAC)

【子どもを信じるということ】

 「子どもを信じましょう」と言われて、ただ言われたというだけの理由から『この子は絶対に悪いことをしない、人をいじめたりしない』と信じる親がいたとしたら愚かです。そういった意味では、子どもはまったく信じるに足りません。
 試しに子どもに「ボクを信じて!」と言われたらこう返してやればいいのです。
「分かった、パパはこれからお前のことを信じるよ。お前はきっと学校の正義の人となって友だちを扶け、いじめはせず、常にクラスの手本となって勉学に励み、ゆくゆくは東大へ進学していつかはこの国を救う救世主になる――」
 そのくらい言えば子どもの方でもこう答えるはずです。
「パパ、やっぱボクのこと、信じなくていいや」

 子どもを信じるというのはそういう意味ではありません。信じていいのは「どの子もいつでも『良くなりたい、誉められたい、みんなにすごいと言われたい、感謝されたい』と思っている」という程度のことです。
「子どもが立ち直るのを信じて待ちましょう」というのも、子どもの中にある前向きな気持ちに期待して気長に待ちましょうということで、それ以上ではないのです。しかし大切なことですよね。
 ただしこの「誉められたい、すごいと言われたい、感謝されたい」は使い方によってかなり危険なことは、つい先日もお話しした通りです。
 また、昨日の引用記事で劇団ひとりさんが話していたのも、これに関わる問題です。
校則のメリットについて「不良のハードルを下げれる効果もあるような気がするんですよ。校則を破るっていうことで“俺はルールを犯してる”ってなるでしょ」と話した。

【校則を破れるオレってすごくネ?】

 不良の世界の評価基準のひとつは、「ルールを破れるオレってすごい」です。
 昔の不良についていえば、「中学生なのにタバコを吸えるオレってすごい」「刺繍入りの学ランを着て登校できるオレって偉い」「教師に悪態つけるオレって本物!」ということです。
 現代で言えば、「交通警察と渡り合えるオレってすごくネ?」「原チャリでパトカーを煽っているオレって偉くネ?」と言ったところでしょうか?
 つまりこの程度のことが「すごい」の実像であり、この程度で自己肯定感が高まったり有能感が増すなら、むしろ「御の字」といったところです。

 これが「誰もが恐れる暴力団の事務所に出入りしているなんて、オレってすごくネ?」とか「シャブを打つようになったオレってハンバじゃないでしょ?」というレベルで事が進むとしたら、なかなか子どもを守り切れるものではありません。
 指導は必ずしも100%うまく行くとは限らないのです。失敗して漏れ落としても子どもの被害は甚大ではない、その程度の位置を最前線にしておかないと必ず後悔するのです。

【懐かしきツーブロック、カラー下着】

 思えば「ツーブロック禁止」や「カラー下着禁止」は程よいきまりでした。
 子どもたちは違反することで、
「高い金払って整えてきたツーブロック。さて先公、どう始末つけるんだい?」
 あるいは、
「カラー下着、ダメだって言ったよね、さあ外せるもんなら外してみな」
 そう言って挑戦してくるわけです。しかしすでに始めてしまったツーブロックやカラー下着を取り下げさせるのは容易ではありません。懲罰も反省文か自宅謹慎どまりで、それすらも守らせられるかどうかは五分五分以下です。
 
 しかし敗れて常態化したところでツーブロックと色付き下着がひとり増えるだけです、その子や周辺の子たちの人生に、深い傷がつくわけでもありません。そのまま、どうでもいいそんな攻防を繰り返しているうちに、3年間はあっという間に終わってしまいます。子どもたちは大した不良になることもなく、卒業していきます。

『たけしさんも言ってたな
「ナイフを持ってきてはいけない」という校則がある学校では「ナイフを持ってくる」だけで、「俺は凄いんだ!」という証明になる。
 それがないと、凄いの証明には、ナイフで誰かを傷つけて、凄いの証明にするかもしれない。と』 
 何十年も経験を積んできたのべ数千万人の教師より、たった一人のコメディアンの言葉の方が影響力を持つのもシャクですが、日常的に子どもと接しているわけでもないのに、「凄いの証明」という概念で不良少年たちを説明してしまうビートたけしは、やはりただ者ではないのでしょう。

【エリートの悪癖:自分にできることは誰でもできる】

 比較的進学校やレベルの高い学校で校則が少ないのは、校則破り以外に、学力とかスポーツとかで、「俺は凄いんだ」を示す場があるからだ
 一流高校や一流大学の卒業生である評論家・識者の中には、自らの体験から校則なんてなくても子どもたちはきちんと生きていける、一見野放図に見えてもきちんと自らの力で自分を磨くことができる、そう信じて疑わない人たちがいます。そのひとたちはもう一度ビートたけし言葉を噛みしめてみればいいのです。
 世の中には勉強もスポーツも芸術もダメで、ルールを破ることでしか認めてもらえないと思い込んでいる子どもたちがたくさんいるのです。そうした子どもたちから「ツーブロックに挑戦する」「カラー下着で権力を誇示する」、そういった機会を奪ったらどうなってしまうでしょう? かわいそうじゃありませんか?

(この稿、続く)