相談の本筋
「自分が誉めることを二の次にして注意ばかりしてきたから
子どももそうなったのかもしれない――」
しかしそれって どうなんだろう?
さらに 誉めるって そんなに難しいことかな?
というお話。
「自分が誉めることを二の次にして注意ばかりしてきたから
子どももそうなったのかもしれない――」
しかしそれって どうなんだろう?
さらに 誉めるって そんなに難しいことかな?
というお話。
2回に分けて送るつもりだった元教え子への手紙。一本目に対して素晴らしい返事が来たのでつい寄り道しましたが、ここからようやく2回目の本筋です。
【親が注意ばかりしていると子もそうなるのか】
私はK子さんが考えているように、親が細かく注意するので娘も注意するようになったという説には必ずしも賛成しません。
子は親の鑑と言ったりしますが、なんといっても子どもには生まれながらの性格というものがありますし、幼稚園や学校でつくられた人間関係もあります。母親の対応というのは子どもが受けている影響の一部でしかありません。
だからその点で感じすぎるほどに責任を感じる必要はないと思うのですが、それとは別に、子どもにとっては注意ばかりされている毎日、親にとって注意ばかりしている日常って、さっぱり面白くありませんし、なにか不健康な気がします。
親の方は我慢するにしても、子は下手をすると意欲や生き生きとした表情を失ってしまいます。
「だから子どもを注意するのは控えましょう」という話にはもちろんなりません。注意するのを控えたらあれもこれもダメになりそうで不安ですから。
それにもともと注意されるような子には悪いところがあるわけで、やはり放置することはできません。「注意」は減らそうと思ってもなかなかできるものではないのです。
しかし自然に減ることはあります。
誉める機会を増やすと、子どもはもっと誉められるように努力しますから、注意しなくてはならないことがどんどん減って行くのです。
昨日も申し上げたように、親が子の成長を喜び、良いことをしたり誉められたりした話を熱心に聞いて、ともに喜び合ったりする時間が増えると、子は毎日ひとつくらいは、学校から“いい話”を持って帰ろうとします。そのために何かいいことをして帰ってきます。
もちろん、直接的に親から誉められるのはもっといいことです。
でも、誉めるって難しいですよね。子どもって、よく見ていても誉められるようなことをなかなかしてくれませんから。
子は親の鑑と言ったりしますが、なんといっても子どもには生まれながらの性格というものがありますし、幼稚園や学校でつくられた人間関係もあります。母親の対応というのは子どもが受けている影響の一部でしかありません。
だからその点で感じすぎるほどに責任を感じる必要はないと思うのですが、それとは別に、子どもにとっては注意ばかりされている毎日、親にとって注意ばかりしている日常って、さっぱり面白くありませんし、なにか不健康な気がします。
親の方は我慢するにしても、子は下手をすると意欲や生き生きとした表情を失ってしまいます。
「だから子どもを注意するのは控えましょう」という話にはもちろんなりません。注意するのを控えたらあれもこれもダメになりそうで不安ですから。
それにもともと注意されるような子には悪いところがあるわけで、やはり放置することはできません。「注意」は減らそうと思ってもなかなかできるものではないのです。
しかし自然に減ることはあります。
誉める機会を増やすと、子どもはもっと誉められるように努力しますから、注意しなくてはならないことがどんどん減って行くのです。
昨日も申し上げたように、親が子の成長を喜び、良いことをしたり誉められたりした話を熱心に聞いて、ともに喜び合ったりする時間が増えると、子は毎日ひとつくらいは、学校から“いい話”を持って帰ろうとします。そのために何かいいことをして帰ってきます。
もちろん、直接的に親から誉められるのはもっといいことです。
でも、誉めるって難しいですよね。子どもって、よく見ていても誉められるようなことをなかなかしてくれませんから。
【誉められるようにしてから誉める】
これについては、私に有効なアドバイスがあります。教師ならみんな知っている方法なので自信があります。
それは「誉められるようにしてから誉める」ということです。
昔、山本五十六(いそろく)という海軍の英雄がいました。この人の言葉に、
「やってみせ 言って聞かせて させてみて 誉めてやらねば 人は動かじ」
というのがあります。「まず見本を見せ、十分に説明して その上で実際にやる姿を見守り できたら誉めてやる そうしなければ人間は育たない」
という意味です。
ここで言う「人」は大人であって子育ての話ではありません。
大人であっても手本を見せたり説明したり、やらせてみたりして、うんと丁寧に教えてその上で“誉める”。あれだけ教えたんだからできたって当たり前、と思ってはいけないのです。
大人ですらそうですから、子どもはなおさらです。ここに子どもを誉めるコツがあります。
宿題を見てやるときも、難しい問題は一緒に考えて、内心《ほとんどアタシがやったようなものだからできなきゃバカだろ》という思う場合も、できたら抱きしめるようにして大げさに誉める。
《そんなに大げさに誉めたら、逆にバカにしていると思われないかしら》
そう思うくらいがちょうどいいのです。
K子さんだって派手に誉められたら、最初は胡散臭い気がしても、やがてうれしくなってきてしまうでしょ?
お嬢さんの場合ですと、女性同士ですから料理を教えるなんてのもいいでしょう。親子で一緒に新しいレシピに挑戦するのです。
レシピ通り、肉何グラム、食塩何グラム、加熱時間は何分と正確にやればほぼ100%、美味いものができるに決まっています。
料理の先生の中には、
「レシピ通りにやればおいしくできるなんて当たり前だから誉めてもダメ。誉めていいのは野菜の切り方だとか盛り付けだとか、レシピ通りにできない部分だけ」
などという人もいますが、それはレベルの高い生徒に限った話で、子どもはそんなふうに考えません、
その証拠に
「今日、先生の言うとおりにやったらいい絵が書けた」とか「先生のお陰で逆上がりができた」なんて言う子はひとりもいないでしょ? みんな自分でやったつもりでいる。
“たくさんの仕掛けを用意して、どんな子でもできるようしてからやらせ、できたら誉める”は学校の先生たちがいつもやっていることです。
「バカでもできるように丁寧に教えて、その上で、できたら誉める」
それを繰り返していると、自然と「注意」は減るものです。親だって誉める方が気持ちいいのですから、誉める時間を増やすと「注意」なんかしたくなくなるものです。
以上です。
また何かあったら連絡をください。
相談してくれてありがとう。素敵な、賢いお母さまにもよろしくお伝えください。
(この稿、終了)
それは「誉められるようにしてから誉める」ということです。
昔、山本五十六(いそろく)という海軍の英雄がいました。この人の言葉に、
「やってみせ 言って聞かせて させてみて 誉めてやらねば 人は動かじ」
というのがあります。「まず見本を見せ、十分に説明して その上で実際にやる姿を見守り できたら誉めてやる そうしなければ人間は育たない」
という意味です。
ここで言う「人」は大人であって子育ての話ではありません。
大人であっても手本を見せたり説明したり、やらせてみたりして、うんと丁寧に教えてその上で“誉める”。あれだけ教えたんだからできたって当たり前、と思ってはいけないのです。
大人ですらそうですから、子どもはなおさらです。ここに子どもを誉めるコツがあります。
宿題を見てやるときも、難しい問題は一緒に考えて、内心《ほとんどアタシがやったようなものだからできなきゃバカだろ》という思う場合も、できたら抱きしめるようにして大げさに誉める。
《そんなに大げさに誉めたら、逆にバカにしていると思われないかしら》
そう思うくらいがちょうどいいのです。
K子さんだって派手に誉められたら、最初は胡散臭い気がしても、やがてうれしくなってきてしまうでしょ?
お嬢さんの場合ですと、女性同士ですから料理を教えるなんてのもいいでしょう。親子で一緒に新しいレシピに挑戦するのです。
レシピ通り、肉何グラム、食塩何グラム、加熱時間は何分と正確にやればほぼ100%、美味いものができるに決まっています。
料理の先生の中には、
「レシピ通りにやればおいしくできるなんて当たり前だから誉めてもダメ。誉めていいのは野菜の切り方だとか盛り付けだとか、レシピ通りにできない部分だけ」
などという人もいますが、それはレベルの高い生徒に限った話で、子どもはそんなふうに考えません、
その証拠に
「今日、先生の言うとおりにやったらいい絵が書けた」とか「先生のお陰で逆上がりができた」なんて言う子はひとりもいないでしょ? みんな自分でやったつもりでいる。
“たくさんの仕掛けを用意して、どんな子でもできるようしてからやらせ、できたら誉める”は学校の先生たちがいつもやっていることです。
「バカでもできるように丁寧に教えて、その上で、できたら誉める」
それを繰り返していると、自然と「注意」は減るものです。親だって誉める方が気持ちいいのですから、誉める時間を増やすと「注意」なんかしたくなくなるものです。
以上です。
また何かあったら連絡をください。
相談してくれてありがとう。素敵な、賢いお母さまにもよろしくお伝えください。
(この稿、終了)