「教育用語の基礎知識」⑨〜向き合う・寄り添うF

「登校刺激を与えず、子どもを信じ、エネルギーのたまるのを待つ」という論理を引き受けてかりそめの平和に浸り始めた家族のうち、知らず知らず「寄り添う」姿勢がつくれた家、そしてすべてを諦めることで「ただ生きてさえいてくれればいい」――つまりその子が生まれた時と同じ気持ちになって育てなおしを始めることができた家では先の論理が成果を生んだ、そういうことではないかと私は思っています。

 ではそれでうまく行かなかった家はそういった能力がなかったのか。たぶんそれも違います。
 不登校も非行も、あるいはその他の子どもの問題についても、親子で会話のできる状態があれば何とかなる可能性があります。しかしまったく会話ができない、完全に拒否されるとなるとかなり難しくなります。まずは話ができる人間関係の作りからやり直さなくてはならないからです。 そして多く場合、その時間に耐えられない。Wikipediaの言う「放置により不登校の長期化する可能性もある」(不登校に限りませんが)は、そういうところから生まれます。

 もし今、それが存在するなら「会話のできる関係」を死守するということが最重要。そのためにはかなりのことを我慢しなくてはなりません。
「オレ、やっぱりまじめに勉強して医者になろうと思う」と言ったとき、それに飛びついて大喜びし、大きな応援旗を振らないよう注意するのは、ある種の親にとってはかなり難しいことです。別の親は「そんなこと言ったってできっこない。お前のことだからまた三日坊主だ」と憎まれ口を言いかける自分を止めるのが大変です。しかしそれをしなければ寄り添っていくことは不可能です。
 あれほど言ったのにまたバイクで走りだしてしまった、あれほど約束したのに中間教室の先生との約束を破った、そうした子どもに絶望や怒りを知らせない、それも難しいことですがやらなければならない――。

 目の前の波の動きに一喜一憂するのではなく、すぐには見えない潮の満ち引きに注意することです。「毎日毎日いいことも悪いこともあるけど、全体にいい方向へ進んでいる」とか「潮が引いている、少し会話の量を増やし、より良い方向へ進めるようあの子の気持ちを聞いてみよう」とかいったふうにです
 今できることはそれしかありません。
 大丈夫、子どもを信じてのようにしていけばきっと大丈夫です。
――と書いて、ところでこういう場合の「子どもを信じる」とはどういう意味なのでしょう?

 話は「教育用語の基礎知識」の振出しに戻ります。