「原理主義者の心得」

 私は一種の原理主義者でしたので、生徒との間で校則やルール、約束事が守られないことには我慢がなりませんでした。一部のものが楽や得をして、他のものが苦労や損をするという不公平が耐えられなかったこともありますが、校則やルールに例外をつくるとその部分に他の生徒が殺到し、収拾がつかなくなるのではないかという恐怖心もありました。

 約束は、私も死守しますが子どもたちにも守ってもらわなくてはならない、そう信じて指導をし続けたのですが、しかしそれがほんとうに苦しかった。

 例えば、まだ教員になりたての頃、夏休みの宿題をまったくやってこないという生徒がいて、それをすべてやらせるのに10月末までかかったことがあります。

「明日までに〇〇ページ分やって来い」と言ったって夏休みにできなかったものを普通日にできるはずがなく、結局、居残り勉強にして毎日私が見るしかなかったのです。それも部活指導の合間に教室に戻ってチェックするわけですから、ほんとうに大変です。うっかりすると生徒の方が寝ていたりします。

 それでも宿題を完遂しない生徒を見逃すよりはマシと考えて続けたのですが、そうなると罰を受けているのがどちらなのか分からなくなります。

 さらに生徒が確信犯的にルールに挑戦してきたりすると、お互い睨み合ってにっちもさっちもいかなくなったりします。そういうことがしばしば起ります。

 そんな私の考えが変わったのはずいぶん後年、ベテランの域もはるかに越えるくらいになってからのことです。下足箱の靴をそろえる指導について、そのときの校長先生がこんな話をしてくれたのです。

「どんなきまりもルールも、全員に完璧に守らせようと思っても絶対ムリ。守らない子、守れない子がいつも必ずいる」

 至極あたりまえのことです。その上でその校長先生は、下足箱の靴を全部そろえたかったら、できない子の分を他の子がやってあげるシステムをつくればいいと、そんなふうに教えてくれたのです。

(このあたりの事情については、ブログの2007年5月8日〜9日に詳しく書いてあります《「はきものをそろえると」》)

 さっきの夏休みの宿題について言えば、休みが終わってからの対処では遅いのです。どうせ夏休み中は部活指導に来ているのですから、そのつど怪しい生徒を学校に呼んで宿題の仕上がりをチェックすればよかったのです。当該の“怪しい生徒”たちは名指しすると必ず、

「なんで俺たちだけ疑われるのヨォ?」

とか言って食って掛かってきますから、そうしたら「前科者は疑われやすいのだ」とか軽くかわしておけばいいのです(この「前科者は疑われやすいのだ」はいつも驚くほど効果がありました)。

 夏休みの宿題を全部やらせたいというのは一種の温情ですが、そこまでのエネルギーはないとなればそれなりのペナルティーをあらかじめ用意しておけばそれもかまいません。

「宿題が終わらなかったものは部活動停止、重労働一週間」

とか言って、あとは学校の倉庫の片づけなどをさせればそれでかまいません。指導は副校長先生にでもお願いしていきましょう。校内で整理が必要な個所など、いくらでもあります。

 大切なのは「ペナルティーは執行された。不正が見逃された事実はない」ということを、生徒全員が認め合うことです。多少、罪と罰が非対称でも仕方ないでしょう。

 それで私の原理主義も守られ、子どもたちも納得してくれるはずです。