カイト・カフェ

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「学校は子どもの来るところではない」~校則の話②

 決まりをつくって押し付けることで 先生たちは楽をしようとしている
 という言い方がある
 冗談じゃない 決まりがあるから守らせる大変さがあるのだ
 校則なんてない方がお互いに楽なことは目に見えている
 ただし それでいいのかどうかは疑問だ
 学校に子どもは来てはいけない 来ていいのは学校にふさわしい者だけだ

というお話。

f:id:kite-cafe:20190903074000j:plain(ヤン・ステーン作「学校」)

 

【なぜ校則はなくならないか――の、素人的答え】

 昨日取り上げたYahooJapanニュース、「その校則、ちゃんと説明できますか? ― なぜ、理不尽な校則は変わらないのか」で筆者の妹尾昌俊さんが

変な校則は、なぜ生き残っているのか。学校がなかなか変わらない理由をいくつか考えてみた
その結果は、以下の三点でした。

理由1:「校則をゆるめると、生徒指導上、面倒になる」と考えているから。教員にとっては「これは校則だ、ルールだ」として押しつけていたほうが、ラクだから。

理由2:茶髪等では就職活動や入試の面接のときに不利になるなど、校則を正当化する理由を疑っていないから。

理由3:変えると、保護者等の一部から反対があり、面倒だから。


 私は義務教育の教員でしたので高校のことは十分に説明できませんから、理由2については外させていただきます。小中学校で、就職に不利だからやめましょうという指導は、あまりないと思います。

 また理由3についても、学校に校則を変えようという意思がある場合は「保護者の説得」が問題となりますが、そもそも学校はかなり保守的な場所で無意味な校則でも変える気はありませんから、これも問題とはならないでしょう。

 したがって取り上げるに値するのは理由1の「これは校則だ、ルールだ」として押しつけていたほうが、ラクだからだけということになります。
 そしてそれはとんでもない思い違いなのです。
 
 

【校則があるから、実は大変】

 考えても見てください。生徒に向かって、
「おい、髪の毛、染めてきたな」
「それが何か?」
「そんな茶髪にしたらマズイだろう」
「なんでいけないんですか?」
「だって校則に書いてあるじゃないか」
「あ、そうですか。ルールならしかたありません。直してきます」
などといったことは、絶対に起こりません
 押し付けたところで、簡単にきいてなどくれないのです。

 逆に校則があるからこそ教師は大変なのであって、例えば服装の決まりひとつをとっても、なくなればどれほど楽か分かりません。なにしろ守らせなくていいのですから。
 スカート丈がどんなに短くても長くてもかまわない。登校時間の定めがなく、いつ来てもいつ帰ってもいい、そういったことになれば怒る必要もない、家庭連絡の労もない、生徒に恨まれることもない・・・・・・。
 ただ、その上で、高い学力を、正しいマナーを、道徳心を、と求められても困るのです。
 いじめや不登校の責任を問われるのも困ります。


 すべて自由、ただし自己責任でやってください。学力を高めるのも、人間性を育むのも、自分の身を守るのもあなた自身です――そうなれば、もしかしたら児童生徒と教師の、双方がラクかもしれません。

 ただ、たかだか10年前後しか生きて来なかった子に、自己決定・自己責任を問うのは気の毒であると同時に無責任のようにも思われるのです。
「勉強はしなくても構わない。ただ、その後の人生の責任はみんなキミが取るんだからね」
「学校に行かない決心をしたんだね。その意志を大切にするよ。今日からキミとお別れだ」
「中学に入った記念に髪の毛を染めてピアスの穴を空けたんだね。鼻にもしたのか――。それでいい思いをすることもあるけど、差別もされるよ。でもキミの気持ちは尊重しよう」
 こう書いてみるとずいぶんと冷たい気はしませんか?
 
 

【学校に子どもは来てはいけない】

 かつてという小浜逸郎という評論家は
「学校に子どもは来てはいけない。来ていいのは児童と生徒だけだ」
と言ったことがあります。
 子どもは生のままの姿で学校に来てはいけない、学ぶ姿勢のある者だけが学校に来ることを許されている、という意味です。

 これはどんな場についても言えることで、例えばディズニーランドだって、生の子どもに来られては困ります。
 来ていいのは、入場料を払い、園内のルールに従える「来園者」だけであって、料金を払わなかったり、無暗に列に割り込んだり、あるいはコースターから飛び降りてあちこち散策したりするような生の「子ども」は、摘まみ出されなくてはなりません。

 学校も同じで、本来は学ぶ姿勢のある者――児童生徒だけが来る場所です。
 ディズニーランドと違って「そもそも行かない」という選択のしにくい場所ですが、それでも自分の家や地域でするのと、同じようにふるまっていい場所ではありません。

 そこで「校則」の必要性が生まれます。
 児童生徒として学校で生活することは、家庭や地域で過ごすこととどう違うのか、目安を示さなくてはならないのです。

 明日はまず、そうした「校則」の種類について考えます。

                        (この稿、続く)