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「アカウンタビリティとコンプライアンス」〜体感!日本教育超現在史⑤

  アカウンタビリティコンプライアンスはほぼ同時に日本に入ってきました。一応「説明責任」と「法令順守」という日本語が当てられています。しかし普通は英語のまま使われます。概念がぴったり重ならないからです。
 日本にパンダがいなかったからパンダはパンダと呼ばれ、ライオンはライオンと呼ばれるのと同じです。犬も猫も古くから日本にいましたから、誰もドッグとかキャットとか言いません。同じように、アカウンタビリティコンプライアンスも、日本に同じ概念がないから原語のままなのです。

 もともとは企業マネジメント(これも原語。日本に概念がないので)から出てきた言葉です。政府や企業は直接的間接的に関わりをもつすべての人と組織に、その活動や予定・内容・結果等の報告をする義務があるとする考えをアカウンタビリティといい、法令や社会規範・モラル全般を遵守することをコンプライアンスと言います。共通するのは、それを守らなかったばかりに企業が倒産したり政府が危機に瀕したりしたことがある、その反省にたって確立した概念だということです。その意味では危機管理の一部であり基本的には企業・政府の自己防衛の話なのです。ひとことで言ってしまうと、ツッコまれるところをすべて消せ、ということです。

 こうした概念がやってきてまず困ったのは、学校評議員会や学校評価など外部評価です。実際に行うとすぐに分かったのですが、保護者といえども学校のことはほとんど知らなかった、地域の名士の集まりである学校評議員となるとなおさらだったのです。これでは評価してもらえない。そこから学校に繰り返し来ていただき、それまで説明抜きでやってきたこともいちいち説明できるものに変換して話さなければならなくなったのです。それがけっこう大変だった――。

 世の中のことはすべて説明可能で、型通りに進められるものものではありません。
 例えば刃物職人は爪切りの刃先を合わせるのに感覚だけでヤスリを操ります。ヤスリを被せて刃先が見えない状態で調整するのです。あるいはガラス職人は正確に炉の温度を計り、時間を秒単位で設定してガラスを溶かすのではありません。すべて勘を頼りに行っています。名人といわれる人ほどそうなのです。

 学校教育も職人芸ですから、個々の細かなことは説明できません。専門的に考察すればそれなりの理由がある場合も少なくありませんが、教員のほとんどは教育学者ではありませんから分析的に進めるということはなかったのです。それを説明し始めると、これはなかなかの作業になりました。

 また、たとえば小学校の通知票など、かつては単なる「子どもを励ます道具」でした。誰も本気で正確に書こうなど思っていませんでした(私見です)。正確に記して「△が15個」といったことになると、子どもの意欲が枯れてしまうからです。逆に「オール◎」だと保護者も指導の仕方が分からなくなってしまいます。すべての項目で80点以上取るような子どもでも、中身は100点だったり80点しか取れなかったりということがあるのです。80点の分野ではやはり力を入れてもらう必要があります。だから意図的に「◎」を「○」に落としたりもしました。
 しかし現在ではそうではありません。教員は、すべて通知票の評価の元となる台帳を持っています。テストの点数や発言の様子、宿題の提出状況などはすべて数値化されて記されているのです。それはたいへんな労力です。
「ウチの子のこの部分はなぜ『△』なのですか」と聞きに来た保護者がいる、という話は聞いたことがありませんが、全国の教員はいつ聞かれてもいいように、常に台帳を作り続けているのです

 現代の学校は20年前、30年前の教員とは比較にならないほど大量の仕事を抱えています。にもかかわらず何とか保っているのは、とりもなおさず現在の教員が優秀だかです。ことに平成不況以後に採用試験を突破した“先生”たちは、とんでもなく優秀でした。