「庇いきれない人たち」

 私は基本的に教師サイドでものを考える人間であり、「この話は五分五分だな」と思うときも発言は6:4あるいは7:3で教師よりに傾けるようにしています。こうした人間は校内にむしろ少数派です。問題がれば教員の犠牲で解決する風潮があり、「子どものために」の旗印の前に私たちは屈せざるを得ませんでした。「子どもに必要なことをするのに、何をためらうのか」といった言い方です。私はしばしばそれが我慢できないことがありました。教員になったその日から、教師を守る教師でいたいと決心してきたからです。

 けれどそんな私をもってしても、かばいきれない先生、守るのが難しい教師がいます。ひとつは絶望的なまでに子どもの心の読めない先生、もうひとつは最低のことしかしない教師です。

 これまで何度も言っていたように教職は職人芸ですから年季を積めばそれだけ良い先生、少なくとも普通の先生は育ていきます。中に数%、天才的な人もいまが、それも他の職人世界と同じです(ただし彼らは“天才”ですから、彼らができるからといって同じことを私に求められても困ります)。そしてたとえば大工さんや家具職人を考えればわかるように、どうしてもその世界に向かない、できれば早いうちに辞めた方がいい人もいます。たぶん3%から5%くらい、学校で言えば数校に一人といった程度です。

 教育というのは“読み”と“対応”の積み重ねですから子どもの心が読めないとほんとうに苦しくなります。授業の中で問いを投げかけ(これを発問と言います)、子どもがポケっとしていたら発問自体を代えなくてはいけません。少なくとも何らかのフォローが必要です。ところがその部分が分からない――“なぜ子どもが理解しないのか”、絶望的に理解できないのです。

 ほんとうに気の毒です。本来ならこういう人は、もっと早い時期に他の職業に振り向けておくべきだったのですが、そうはならずに来てしまいました。

 もうひとつの「最低のことしかしない教師」というものについては少し説明が必要です。基本的に中学校には存在しないからです。教育は子どもとの勝負ですから中学校で「最低のことしかしないでただ立っている」ということはありえません。そんなことをすれば一方的に押し込まれるかズタズタにされるだけです。ですからどんなに力のない先生でも一度は真剣に戦おうとします。そしてズタズタにされて「最低のことしかしない先生」――そのように見える教員になってしまった人は確かにいますが、最初からそうだったわけではないのです。ほんとうに気の毒ですが、今その人に教えてもらっている生徒には罪はないのですから、こちらも気の毒です。

 小学校の場合は事情が違います。小学生相手だと「何もせずに立っている」ことがかなり可能です。児童は力がありませんから、ちょっとコツを覚えるだけで押し込まれるということがなくなるのです。その上、さらに多少のワザを身につけると、面白い、良い先生が生まれます。そういうイメージ作りができるわけです。

 困ったことにこうした小技を覚えてしまった教師の下では、むしろトラブルは発生しません。無理をさせたり枠にはめたり、あるいは目指す方向にしつこく向けたりということがないので、子どもがゆったり構えているのです。ストレスもないので不登校もいじめの訴えもまず出て来はしません。問題は子どもが成長しないということだけですが、子どもの成長の要素は学校だけではないので案外目立たないのです。

 かくして彼(または彼女)はノウノウと教員生活を続けていきますが、その陰で、子ども(の未熟さ)と戦う教師が次々と倒れていくのはやはり納得できない、そういう思いでいます。

 ただしそういった“最低のことしかしない教員”も、日本の学校社会ではごくごく少数しかいないのです。