カイト・カフェ

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「意義も重要性もわかっているのに伝える時間がない」~特別活動の話⑤

 教師が多忙なのは単純に仕事が増えたからだ。
 だが仕事を減らせというと、伝統のある重要なものから削られる。
 それは減らしてはダメだ、それは重要だと叫びたくても、
 きちんと説明し、訴えるための時間がない。

という話。f:id:kite-cafe:20200124082505j:plain(「修学旅行で海外へ」PhotoACより)

【なぜ学校はこうも多忙なのか】

 なぜ学校はこうも多忙になったのか――?

 答えは簡単です。仕事が増えたのです。

 パッと思いつくだけでも、
 人権教育、性教育、生活科、総合的な学習の時間、メディアリテラシー教育、薬物乱用防止教育、キャリア教育、食育、小学校英語、プログラミング学習、特別な教科「道徳」――これらは50年前にはなかった、いわゆる「追加教育」です。
 70年さかのぼれば「道徳」さえありませんでした。部活動もなかった。

 体罰は厳に慎まれ、説得と合意を基礎とした辛抱強い生徒指導が中心となりました。
 全国学力学習状況調査、教員評価・学校評価・授業評価・地域からの評価、地域ボランティア、地域交流、教員免許更新制度。
 不登校指導、発達障害支援、不審者対応。
 アカウンタビリティ(説明責任)は学級だより・学年だより・学校だより・学校ホームページの拡充を求めます。と同時に、政府・地方公共団体の説明責任に協力するための報告書も膨大にあります。
 これだけ仕事が増えたのに、教職員定数法によって教員はほとんど増えることなく今日に至っています。これでは忙しくなるわけです。

 すぐにわかることですが、解決法は二つしかありません。
 教員を増やすか、仕事を減らすか。

 国・地方公共団体は後者を選びました。お金のかかる教員の増加は絶対に認められません。だから仕事を減らすしかないのですが、その際、新しいものは残し、古いものを削るを原則としました。

 教員評価や免許更新制はどんなに非難されてもやめることはしませんが、国語や社会科、音楽、美術、技術科家庭科といった教科の時数は平気で減らします。
 国語などは昭和に比べて70時間(3年間で)も減らしてしまいましたから、これ以上削減することはできません。そこで目をつけたのが特別活動と部活動です。

 政治家も官僚もマスコミも、そして世間一般の人々も、特別活動や部活動を、勉強ではないもの、楽しいお遊びやつまらない儀式、スポーツ、思い出づくり、気晴らしと、その程度にしか思っていませんから、減らすのに何の抵抗もないのです。
 もちろん一部は、特別活動や部活動の価値や重要性を十分に伝えて来なかった学校と教員にも責任のあることですが――。

 

【意義も重要性もわかっているのに伝える時間がない】

 部活は何のために行うのか、音楽会は、文化祭はどんな力をつけるためにやっているのか、修学旅行はなぜ行うのか――、学校も職員もそれについて社会に十分に知らせて来ませんでした。

 修学旅行の目的なんて「旅行の栞」の第1ページにはっきりと書いてあるのに、保護者説明会でも十分に説明してきませんでした。とにかく無事に行ってきたいという気持ちが強く、日程や持ち物の説明で精いっぱいといったところだったのです。

 しかし優秀な先生だったら修学旅行のような大行事には、必ず様々な仕掛けをつくっていきます。
 たとえばある先生にとって、ランチバイキングですら単なる食事の時間ではありません。
 私はそうしたクラスを見たことがあるのですが、バイキング形式のレストランでいったん食事をそろえてテーブルに座りかけた女の子が、プレートの中身を確認して、
「あ、やっぱ緑が少し足りない」
とか言って再び料理を取りに戻ったりするのです。それも一人や二人ではありません。隣の子のプレートをのぞき込んで評価する子までいます。たまげました。

 私は二流ですから旅行会社からランチバイキングの提案があれば、
「日ごろお仕着せの給食メニューを食べているのだから、たまには好きな食べ物も食べさせてやろう」
と考えるのですが一流は違います。
 おそらくそのクラスには、バランスの良い食事とは何か、どういう点に注意して食品をそろえるといいのか、どんな栄養素が何の食品に含まれているのか等々、日常的に学んでいるのでしょう。ランチバイキングはいわばそうした食育の卒業認定試験なのです。

 私は修学旅行にディズニーランドなどのテーマパークが入るのを好みませんが、こういう人が引率すれば、そこは単なる遊園地ではなく、集団行動と計画実践の場とになります。
 担任や添乗員がいちいち言わなくても計画表と時計を見ながら次の行動にきちんと移れるか、必要な学習はきちんとできているか、メモは取れているのか、忘れ物はしていないか、自分だけではなく友だちにも気を配れるか等々、すべてがテストされます。

「帰ってから旅行記を書くんだからね。ボーっと遊んできちゃダメなんだよ。
 作文なんて後から思い出して書こうと思っても書けるもんじゃない。はじめから作文に書けるように見て、作文で伝わるように楽しんで、メモに残しながら回ると、帰ってきてから楽だよ」
 そのくらいのことは前もって言って練習もしてきているのかもしれません。

 だから修学旅行は春に行われるのです。認定試験にパスできない部分は、卒業までに作り直さなくてはなりません。

 修学旅行がそういうものであることを私は知っています。そんなこと学校の先生はみんな知っているのですが説明している時間がない、時間がないから修学旅行の価値についても理解してもらえない。世間から軽く扱われる――。

 やはりそういうことを説明し、理解してもらうためにも、先生たちにはゆとりを与えなければならないのです。

(この稿、終了)