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「還暦ってなんだっけ?」~十干十二支(じっかんじゅうにし)の話

 社会科を教える上で困ることのひとつは、広い知識の裾野がないと安心して教壇に立てないないということです。
 たとえば「壬申の乱」についてそうとう熱心に教材研究を進め、天智天皇大海人皇子藤原鎌足大友皇子の事跡まで固めても、一人の突飛な子の「先生!“壬申”ってなんのこと?」のひとことで破綻してしまいます。「壬申の乱」の内容はいくらでも調べられるのですが、「壬申」そのものについての説明に出会うのは、案外難しいのです。なかなか出てこない。

 実は「壬申」は年を表しているのであって訓では「みずのえ・さる」と読みます。「さる年」の事件なのです。同じような言葉に「庚午年籍」「戊辰戦争」「辛亥革命」などがありますが、いずれも午(うま)年、辰年亥年の出来事です。歴史用語ではありませんが「甲子園」は子(ね:ねずみ)年に建設されています。
 これで「壬申」の「申」の方は分かりました。しかし「壬」の方はまだです。そしてこちらの方の説明はやや厄介になります。

 安倍晴明で有名な陰陽道では、すべてのものは「木火土金水(もっかどこんすい)」の五つの要素(これを五大と言います)からできていて、一つひとつが陰か陽かの性質を帯びて複雑に絡むところから成り立っていると考えます。一種の原子論です。
 陽というのは兄弟で言えば兄、男女であれば男、天体であれば太陽が具現している明るく勢いのある性質です。それに対して陰は弟・女性・月などが持っている静かで落ち着いた、どちらかと弱い性質を言います。
 つまり「木」には兄の性質を持つ強い状態と弟の性質を持つ弱い状態があるわけで、これを「木の兄」「木の弟」と書いてそれぞれ「きのえ」「きのと」と読みます。同様に「火の兄」「火の弟」と続くわけですが、文字の方は中国の例に従って漢字一字で表し「甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸」と書きます。左から「きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと」と読みます。これが十干(じっかん)です。
 この十干と「ね」「うし」などの十二支をあわせて「十干十二支」と言い、昔はこれで年を表したわけです。

 西暦は明治になってから入ってきたものです。その西暦で表す645年には大きな政治改革があり、その年を「大化元年」と定めて、以後「年号」が使われるようになります。しかしそれ以前は十干十二支で年を表すのが日中韓共通のやり方でした。そしてそれ以後もさまざまな理由で十干十二支は生き残っています。

 十干十二支では十干の最初の文字「甲(きのえ)」と十二支の最初の文字「子(ね)」を合わせて「甲子(きのえね)」とするのが最初の年です。翌年が「乙丑(きのとうし)」、その次が「丙寅(ひのえとら)」「丁卯(ひのとう)」。そして順次組み合わせて10年目の「癸酉(みずのととり)」まで行くと十干の方が終了し、「甲」に戻ります。十二支の方はまだ「戌(いぬ)」と「亥(い:いのしし)」が残っていますから11年目は「甲戌(きのえいぬ)」、12年目が「乙亥(きのとい)」となります。13年目は今度は十二支の方が尽きますから「子(ね)」にもどって12年目の「乙亥(きのとい)」に続け、「丙子(ひのえね)」となります。
 そんなふうに組み合わせてずっと続くのですが、さて、それで最初の「甲子」に戻るのは何年後か・・・。これは簡単です。10と12の最小公倍数ですから60。かくして60年後に元の暦に還り、これを「還暦」と言います。赤ちゃんのときと同じ暦になるので、赤いチャンチャンコを着て赤い帽子をかぶり、赤ちゃんの姿になって祝います。それ以降、赤ちゃんに戻ったのですから多少のワガママは許してもらわなくてはなりません。

 さて最後に、「壬申って何」みたいに答えられない質問をされたときに、社会科教師としてどう答えるべきか、それについて話そうと思ったのですが、あいにくここで紙面は尽きてしまうのです。