カイト・カフェ

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「運命の旗振り人」~こちらに来なさいと運命が旗を振る

 長く生きてくると、妙に迷信深くなったり運命論者になったりすることがあります。これは無理ないことで、人生の様々な場面で、偶然と思えないことや不思議なこと、何らかの暗号に繰り返し出会うからです。

 私の場合もっとも基本的に持っている信仰は「信賞必罰」。ただしそんなに厳しいものではなく、強いて言えば「人は誠実にまじめに、素直にひたむきに生きていれば必ず報われる」といった運命に対する信頼感です。何となくそう思っていて、しかし裏切られることはほとんどありません。

 確かに短期的に見ればあくどい者が得をしたりずるい人間が優位に立ったりすることもありますが、結局、収支は合わされる。それがその人の代ではなく次の世代に引き継がれるにしても、いつか破綻する、それは確実なことなのだと思っているのです。そうした信仰を前提として、それぞれの人生の岐路で何を決定したらよいのか。

 私はそれについて「運命の旗振り人」のようなものを思い浮かべています。運命がこっちへおいでこっちへおいでと旗を振ってよこすのです。私が行うべきことは心を澄ませ、その旗音を感じ取ることです。別の言い方をすると、何が神様の用意してくれたギフトで何が単なる雑音なのか、それを感じ取るということです。

 例えば、大した努力もしないのに転がり込んできた幸運は、自分がどれほど気に入らなくてもギフトです。
 いい人であると思っていても本命ではなかった異性からの突然のプロポーズ、少し大変だけどやりがいのある仕事が任されること、出版社に就職したかったのに義理で受けた商社の方が受かってしまったというような場合などがそれです。別の人からすれば夢のような話ですが、本人にその気がなければそれまでです。しかしそれが旗振り人の旗の音なのです。

 その先にあるのが何かわかりません。最後の例で言えば、入ってみたら貿易にこそ才能があって面白おかしく仕事ができるといったことなのかもしれません。あるいは2〜3年して広報の部署に配属され、そこで本来の力を発揮して結局大手出版社に引き抜かれる、そういった話かもしれません。さらにあるいは本務とは全く無関係に、そこで最良の伴侶に恵まれるということなのかもしれません。いずれにしろ「運命の旗振り人」の旗音に従うと何か必ずいいことがある、そんなふうに思うのです。
 もちろんその人の生き方が真摯なものでなければ「旗振り人」は旗を振ったりしません。あくまでも生き方が前提です。

 私はときどき、「この人はなんと下手な生き方をするのだろう」とため息をつくことがあります。その時その時点での自分の気持ちを最優先にしていちいち運命に逆らう、抵抗する、押しつぶす。そうやってブルドーザーのごとく人生を切り開いて行こうとするのですが、あちこちでぶつかったり空回りばかりで一向に前へ進まない、そういう人です。

 実は人生の壁も社会の壁も、石積みの城壁のように固く強いものではなく、コンニャク・ゼリーのように弾力があってしかも柔らかい質をしています。強くぶつかれば跳ね返され、ゆっくり通せば内部に取り込まれてしまうようなものです。その壁を突破するには、壁のさまざまな襞を巡り、しばしば遠回りをしながらも時間をかけて向こう側に進むしかないのです。

 神様は、ときどき不可解な信号を発することがあります。なぜ自分がこんな目に合わなければならないのかと嘆きたくなる時もあります。しかし神慮とはそういうもので、人知を超えているのです。どんな苦しい課題を与えられようとも、正しく生きる人間が誠実に考えて行動すれば「運命の旗振り人」は小さく、しかしにぎやかに旗を振っているのです。