さまざまな不祥事や事件、いじめや体罰の報道を見ながら、いつも感じているのは一種言いようのない苛立ちというか、空しさのようなものです。学校は理解されていない、誤解というほどではないが微かで、しかも決定的な溝があって双方それを乗り越えることができない、そういう感じです。
むろんそれは私たちがきちんと伝えていないためですが、何が溝で何をどう伝えたらいいのか、それすらもよくわからないのです。私の野心のひとつはその部分を探り当て、一つひとつ分析して外の人の分かる形にすることです。
たとえばモンスター・ペアレンツが問題になった時、「俺たちだってクレームには年中さらされている」という返しがあったりします。それはその通りです。しかし何かが違う。民間企業の“彼”が受けるクレームと、学校が受けるクレームとではどこかが決定的に違い、それが教員を次々とつぶしていく、そんな感じがするのです。
その差をきちんと説明できなければ「状況は同じなのに教員だけがつぶれていく、それは社会を厳しさ知らず、学校から学校に就職した人間の甘さのためだ」といった誹りを受けるしかなくなります。しかしよく考えてみましょう。
企業人の彼が受けるクレームの大部分は企業同士のものです。そこには経験から生まれた法人同士の“落としどころ”があります。いわばパターンがあるわけです。またそれが大企業なら専門の担当者がいることもあります。いざとなればそちらに引き継げます。クレームの内容も商品を中心としたものですから“商品”の周辺で物事が運びます。最後は争点が“金の問題”となる場合が少なくありません。そうなると弁護士の出番ということもあるでしょう。
しかし学校の場合、相手は常に“個人”です。その要求も落としどころも千差万別です。時には不満を述べるその人自身も“落としどころ”を見失っている場合があり、そうなると話も果てしなくなります。いやそもそも“落としどころ”のない場合の方が多いとさえ言えます。
話の中心にいるのは“もの”ではなく“子ども”ですから返品や交換、あるいは作り直しで済む問題ではありません。また保護者との関係は少なくとも年度の終わりまで切り離すことも無視することもできないのです。それが学校の苦しさです。
もうひとつ、
「教師は多忙だ」と言えばほかの業種から「俺たちだって多忙だ」という話になります。そこに嘘はないでしょう。サービス残業という言葉は私も知っていますし、保護者の話の中にも毎晩10時11時といったことはよく出てきます。一つの業務を延々と続けていかねばならないのです。しかし教員の“多忙”は意味を異にします。それは同時進行の仕事が多様だということなのです。
一人の平均的な中学校教員を思い浮かべてみましょう。普通、教員は名刺を持ちませんがもし作るとしたらその肩書はこんなふうになります。
「○○中学校教諭・2年1組担任・社会科教員・バスケットボール顧問・生徒会整美委員会顧問・(教科)社会科係・社会科授業研究委員・(学年)修学旅行係・(校務)清掃係・職員厚生係員・PTA総務部員・△△市社会科同好会員・・・・」
教員の“多忙”の中心的課題は長時間労働ではなく、そうした多様な立場を次々と切り替えバランスよくオン・オフにしなければならないという神経戦なのです。
そんなこと、私たちがきちんと説明しなければ、だれもわからないことです。