カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「担当は『学級』という教科担任の創設」~すべてを解決する魔法の方策を考えた!

教科のことだけを考え、教科指導の仕方ばかりを考えていたらきっと幸せだろう

学級担任もそれはそれで面白くやりがいのある仕事だ

教師は世間が思うよりはるかに多方面で多様な仕事をしている

それで忙しいのだが・・・私には名案がある!

というお話

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(ヤン・ステーン「学校」)

 

【教科が好きだ、では教師になれない】
 昨日は「文化史をこんなふうに教えておけばよかった」というサブタイトルで、社会科の授業について考えましたが、やはり自分で調べて自分が感動した知識を、自分なりに工夫して伝えるというのは楽しい仕事です。振り返れば、それがしたくて教師になりました。

 

 私は社会科に惚れ込んで教師になりました。こんな授業をしたい、あんな感動を伝えたいといった山ほどの思いを抱え――しかし実際に中学校の担任なってみると社会科教育なんてそっちのけ。毎日追われる仕事は学校行事の準備や事務仕事、好き勝手をやってすぐに道を逸れてしまう生徒たちへの生徒指導――。中でも専門外で指導する部活顧問や、毎週巡ってくる道徳の時間は苦痛でしかたなく、「こんなことがしたくて教師になったんじゃない」と陰でボヤくことしきりでした。

 

 しかしそれは私のとんでもない思い違いで、義務教育学校というのは教科のみを教えるところではなく、子どもを育てるところなのです。

「知・徳・体」――言い換えれば「知育(教科教育)」と「道徳(人間関係づくり・コミュニケーション能力の育成)」、「体育(食育などの健康教育・体づくり)」に、同じように力を注がないと子どもは育たないのです。

 

 とんでもない不心得の私は“罰が当たった”かのようにクラスを荒らしてしまい、そこから遅ればせながら道徳や体育にも熱を入れるようになりました。そして努力を重ねてみるとそれもかなり面白い、そうとうにやりがいのある仕事だったのです。

 特に道徳や生徒指導は、まだ生焼けの若い心に、直接手を突っ込んで働きかけるような仕事ですから面白くないわけがありません。

 

 

【普通の教師は教科指導と生徒指導、両方のプロになれない】

 43歳の時、機会に恵まれて私はある機関で勉強をさせてもらうことになりました。何か研究したいことがあったという訳ではなく、正直言うと、この辺りでいっぺん休みたい、外から学校を見て、教師としての後半生を設計したいといった思いだったのです。

 しかし何の成果も出さずに2年間も遊んでいるわけにはいきません。何らかのテーマを立てなければならないのですが、そこで二者択一に迫られたのです。

 社会科教師としての技能を追求するか、生徒指導のプロとしての道を歩むかという二者です。

 

 もちろん両者バランスよく力をつけるのが理想です。しかし自分にはムリな気がしました。

 私はダメな教師ではなかったと思いますが、格段に優れた教師でもない普通の教師です。そして普通の教師が、教科と生徒指導で同時にプロを目指すのは不可能なのです。

 

「いやそんなことはない、授業こそ最大の生徒指導の場だ。きちんとした授業のもとで児童生徒は生き方や正しい身の処し方を学ぶ」

 そういう主張をされる方がいます。それは全く正しく、実践されておられるたくさんの先生方も私は知っています。しかし私の器はもっと小さいのです。

「できない人にはできない」というのは、どんな場合にも言える鉄則です。

 

 そしてその「普通の教師では両方のプロとなれない教科指導と生徒指導」を、現実には両方ともやっているのが「普通の教師」なのです。

 矛盾していますよね。

 

 

【教員多忙の本質――特別活動は特別!】

 教員が多忙というとすぐに部活と事務仕事が話題になりますが、本来業務が忙しいという点に目が向けられないのが実に不思議です。

 

 中学校を例に上げると、私は社会科教師として「地理」と「歴史」と「公民」の三つを教えます。常時三種類の教材研究をしなくてはなりませんが、それはしかたないでしょう。社会科の教師として雇われたのですから。

 

 その他、学級担任の私は週1時間の道徳の時間の授業をします。週3時間の「総合的な学習の時間」もします。そして「特別活動」という曲者も私の仕事です。

 

「特別活動」は教科指導、道徳、総合的な学習を除く学校のすべての活動を指します。指導要領では年35時間(週1時間)とされていますが、卒業式も始業式も終業式もカウントして、児童生徒会の全時数も数え、ボランティア活動、地域交流、体育祭・音楽会・文化祭、修学旅行をはじめとする各種旅行行事――そしてそれら全部のための準備・練習を含めて35時間で足りるはずがありません。

 

 入学式・卒業式の準備・本番、始業式・終業式だけでも10時間くらいは使ってしまいますし、修学旅行などは二泊三日で18時間(*1)。文化祭は準備時間ゼロ(そんなことはあり得ませんが)でやっても2日間12時間になります。それだけで40時間。すでに足が出ています。

 

 実際にはこの「特別活動」の時間、35時間の3~4倍はやっているのです。本の学校教育の核心(*2)ですからやめるわけにはいきません。

 

 つまり中学校の教師は、学級担任をしている場合、自分の教える教科と同じくらいの時間を「道徳」「総合的な学習の時間」「特別活動」に使っているのです。担任する自分のクラスについて言えば、教科の2倍以上です。さらにそこに時間外の生徒指導や部活動が加わったりしますから忙しいわけです。

 

*1

 1日6時間の計算。ただし実際には「社会科として6時間、総合的な学習の時間として4時間使い、特別活動は10時間しか使わなかった」といった計算の仕方をしたりします。

*2

以下参照

kite-cafe.hatenablog.com

kite-cafe.hatenablog.com

kite-cafe.hatenablog.com

kite-cafe.hatenablog.com

 

 

【私には名案がある】

「道徳の教科化」という話が出た時、真っ先に頭に浮かんだのは「道徳の教科担任」の配置です。もちろん「そんな金のかかることを文科省がやるわけはない」と承知の上ですが、一応「教科なら教科担任をつけろ」とイチャモンをつけるくらいはできると思ったのです。

 案の定、決まったのは教科書の使用と記述式評価が必須になって教師の仕事が増えたことくらいでしたが、この「道徳の教科担任」という考え方、もう少し可能性を探ってもいいような気がしました。

 

 道徳の時間は週1時間ですから、そのために専科の教科担任を置くのはたしかに不経済です。しかしそれに加えて「総合的な学習の時間」「特別活動」、さらには学級事務、PTA活動まで行う教師の配置となればどうでしょう。つまり国語、数学などの教科担任と同じレベルで「学級担任」を置き、教科と切り離すのです。そうなれば教師の超過労働の問題は一気に解決します。

 

「学級担任」の仕事も専門性の高いやりがいのある仕事です。専科となれば特に「総合的な学習の時間」「道徳」で質の高い授業が期待できます。

 

 教科担任はもちろん教科に専念して、さらに質の高い授業を目指してもらいます。ただし「学級担任」に比べると負担はぐんと軽くなりますから、この人たちは部活も持っていただきます。「学級担任」の方は生徒のいる限り朝から夕方まで縛られますが、「教科担任」は授業のない限り遅れて来ても早く帰宅しても可とします。部活も勤務時間の中に含め、柔軟に対応してもらえばいいのです。

 

 小学校も同様に二人担任制にして、教科指導をする先生と学級担任をする先生とに分けます。ただし小学校の場合、「学級担任」は本人が望めば教科の時間にも入り、チームティーチングをしてもかまいません。これでグンとキメの細かい、個に対応した質の高い授業が行えます。

 

 メデタシ、メデタシ

 

・・・以上、現実としてはヨタ話扱いをされかねない夢物語、でした。