カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「正義のコスト」①

 2004年から2005年にかけて全国で立て続けに女児誘拐殺人事件が起こり、日本中に恐怖が広がりました。子どもには「人を見たら不審者と思え」といった最上級の警戒心を植え付け、学校職員による登下校パトロールが始まるとともに地域にも呼びかけ、数多くの「見守り隊」が組織されたのもこのころのことでした。

 当時私の勤務していた学校の隣では、集団登校を始めた小学校がありました。子どもを誘拐から守るための最善の策の一つと考えられたものです。しかしこの集団登校、その後かなり厄介なものになりました。
 長年伝統となっている集団登校ならいいのですが、にわかづくりの集団走行ではさっぱりまとまりません。低学年の子は年長者に従うという訓練ができていません。高学年の子には地域の子を引っ張ってくるという技能が育っていません。そのため毎朝毎朝200日に渡って高学年は「ちっちゃな人たち」に苦しめられ、「ちっちゃな子」は怒鳴られたり叱られたり、はたまた喧嘩をしたりとトラブルが絶えなかったのです。そのためある保護者は「集団登校のせいで集団不登校になりそう・・・」と言ったとか言わなかったとか。

 しかしだからといってその「集団登校」をやめることはできません。なぜならそれは正義だからです。
 不審者対策として非常に有効な方法ですから、やめるには相応の理由が必要です。やめた途端に誘拐事件でも起きたら、学校は何を考えて集団登校をやめたのだと非難の集中砲火を浴びることは明白です。ケンカやイジメが絶えないとしたらそちらの方を何とかすべきで、集団登校をやめる理由にはならなかったはずだと・・・。かくして「集団登校」は永遠の重荷となっていきます。

 集団登校という正義を果たすのにどれくらいのコストがかかるのか、そしてそれはパフォーマンスに見合うものなのか、あらかじめしっかり考えておくべきだったのかもしれません。

 先日テレビを見ていたら、海岸沿いのある小学校が地域の防災活動に取り組み、津波避難マップを作るとともに地域のお年寄りと一緒に避難する活動に取り組んでいるという話をしていました。お年寄りの一人は「もう足も弱って逃げるのもたいへんなので津波が来たら流されればいいと思っていた」と言いますが、女の子に励まされ、もう一度頑張ってみようという気持ちになったそうです。親戚でもなんでもない、単にご近所というだけの子どもが「タマちゃん、さあ逃げるよ」とまるで友だちのように声をかけ、長くもない坂を十分な時間をかけて一緒に歩いていく姿は、本当に感動的なものでした。

 しかしところで、その同じ番組を見て、「こんなことばかりやっているから日本の子どもの学力は伸びないんだ」と怒りを持った人はいなかったのでしょうか。

 授業時数を増やせば学力が伸びるというものではないかもしれませんが、そう信じている人は少なくありません。政府自民党は学校6日制の復活も視野に入れているといいますから、防災教育に費やす時間を算数や英語に振り向けるべきだという人は少なからず出てきそうなものです。しかしおそらくそうはなりません。なぜなら番組で取り上げられたような優れた防災教育は、子どもにとっても地域にとっても絶対に必要だからです。

 私もそれでいいと思います。しかし同時に、「その時間は算数や英語に振り向け、世界と戦える人材を育てるのに有効ない時間だったのかもしれない」という視点は残しておかなければなりません。なぜならそうしないと、「地域社会に溶け込み、地域の一員として地域のために働き、なおかつ世界と互角に戦えるだけの語学力と理数能力を持った人材を育てる」という、実に荒唐無稽な話になりかねないからです。

(この稿、続く)