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「研究授業の話」~研究授業と手洗い・歯磨き・インフルエンザの話①

 授業をどう改善するかという研究を「授業研究」と言い、その研究に従ってやってみせる公開授業を「研究授業」と言います。教員の方には言わずもがなの話ですが。
 では具体的にどう進めるのかというと、学校関係者以外の方には何の想像もつかないところではないでしょうか。

 大村はまという伝説の国語教師は研究者の論文を元に「先生の御説を現実の授業に乗せるとこうなりますがいかがでしょう」という立場で授業を組み立てたと言いますが、普通の教員はそうではありません。
 基本的には研究グループで何回もの授業を見学し、うまくいった点、つまづいた点などを拾い上げ、検討し、原因を探ったり対応したりしながらよりよい授業のポイントを紡ぎ出し、公開の場でそのいくつかを実際に示してほんとうに有効かどうかを検証してもらう、そういうものです。
 ただし戦後教育だけでも70年。一教員、一グループがどんなに頑張ったって画期的な授業法が発見されるわけでも生まれるわけでもありません。そもそも研究者が提示する授業法・学習法も、今日まで至ってみると定評があるのは「繰り返し学習(反復練習)」と「先行学習(学校の進度より先を進み、授業で復習する)」くらいしかありません。
 私も一時期、小学校の算数で新しい教具(学習のための道具)を開発したり、社会科で誰も扱ったことのないような地元教材を発掘して授業に乗せたりすることに熱中しましたが、確かに面白いことは面白いにしても、“画期的”というわけにもいきません。
 ただし一つの授業について数か月、場合によっては数年にわたって研究するのですからまったく無意味というわけではなく、若い教員を育てるという意味では非常に有効な方法だとは思っていました。

 もっとも、以上は算数・数学あるいは社会科といった“普通の教科”について言えることであって、キャリア教育、保健教育など、いわゆる“追加教育”となると違ってきます。なにしろ大枠が決まっているだけで中身が細かく決まっていないからです。とにかく「何をあつかいましょうか」というところから始まるので「何ともつかみどころがない」と言うか「何でもあり」と言うか、とにかくやれること、やらなければならないことが山ほどあるのです。
 それはとても面倒くさいことであると同時に、うまくはまればやりがいのある仕事でもありました。

 ところで、授業研究で今年は算数をやるか国語をやるか、はたまた追加教育かという問題は、必ずしも学校が自由に決められるというものではありません。そのおよそ半分は文科省都道府県教委、市町村教委から割り振られてくるのです。特徴的なもので言えば文科省が「30人以下学級はほんとうに有効か」という疑問に答えを出そうと思ったら、どこかの学校で試して見なくてはなりません。そのとき都道府県教委を通して、「文部省指定」という形でどこかの学校に降りてくるのです。
 運不運があって、「視聴覚教育の文部省指定」などということになるととんでもない額の補助金がついてきますから苦労があっても教員の士気は高まります。しかしたいていの場合はタダ働きです。

(この稿、続く)