カイト・カフェ

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「人の話を聞けるようにするための薬」~リタリンとガバナビリティの話

 先日、ある話し合いの席で、校長先生から「人の話を聞けるようにするための薬」についてお話がありました。リタリンのことです。

 この薬については、誤解も多いので説明に窮することも再三だったので、この「人の話を聞けるようにするための薬」
という表現にはびっくりするとともに、実に的を得たうまい表現だなあと感心しました。
 リタリンはまさにADHDなどの特効薬でも何でもなく、単に「人の話を聞けるようにするため」の薬です。したがってこれを飲んでおとなしくなった子を、おとなしいからいいやと放っておけば、永遠に普通の生活はできません。人のいうことを聞けるようになったところで、誉めたり叱ったり分からせたりしながら、その子のあり方を変容させていかなければならないのです。

 話は変わります。
 最近はあまり聞かれなくなりましたが、しばしば中井先生の口から「指示が通らない」という言葉が出る時期がありました。私にはこうしたことにこだわる教員のあり方というものがよく分かります。聞けるかどうか、指示が通るかどうかはすべての教育活動の根幹です。どんなにすばらしい授業や活動を用意しても、話が聞けなかったり指示が通らないのでは何も始まりません。
 
 以前、ガバナビリティ(被統治能力)という言葉についてお話しました。統治されるためには適切な能力が必要だという考え方です。為政者の言動に関心を持つこと、必要なことには積極的に参加すること、なんでもかんでもいうことを聞くのではなく、ダメなことはダメと正当な手段でいえること、それらがガバナビリティです。学校の場合は教育される能力、とでも言ったらいいのでしょうか?

 まず人の言うことを聞くことができる、一応指示にしたがってみることができる、やってみた上でダメな場合はきちんとそれを言える、必要に応じて自主的であること、我慢できること、それらがガバナビリティの中身です。
 プロ教師の会の諏訪哲二は「学校に子どもは来てはいけない。来ていいのは児童と生徒だけだ」といいます。学ぶ姿勢のある者、つまり教育のガバナビリティを持った子どもたちが「児童・生徒」なのでしょう。

 ではどうすれば指示の通る子どもたちを育てることができるのか。
 それはまた稿を別にしましょう。