最近また「同調圧力」という言葉を聞くようになった。
日本人は同調圧力に弱く、自分で考えようとしないという。
ホントウか?
我々はそこまで愚かな民族なのか?
という話。
(写真:フォトAC)
【同調圧力の話】
「同調圧力」という言葉は、コロナ禍の最中に広がりを見せてきたと記憶しています。
2020年の夏ごろ、政府が飲食店や遊技場に営業自粛を求めたところ、多くは従ったものの一部が強行。それを市民が行政に密告、1200件にも及ぶ抗議に耐えかねた大阪府は府内で営業を続けているパチンコ店の名前を公表、営業自粛をさらに推し進めるよう圧力をかけたのです。すると大阪府内のパチンコ店に通えなくなったファンの一部は和歌山県に流れるようになり、今度はパチンコ店の前に並ぶ人々の様子が市民によって盗撮され、SNSに上げられたりするようになりました。
私などはコロナが怖くて仕方なかったので、自粛が呼びかけられる中で営業を続ける飲食店や遊戯施設が追及されるのは仕方ないと思っていましたし、営業を強行する事業主の繁盛は自粛した事業主の犠牲の上に成り立っているのだから責められて当然と、そんなふうにも思っていたのです。
ところが世間の風は意外と追及する側に冷たく、「自粛要請は“要請”であって強制ではないのに、なぜ一般市民によって強制されなくてはならないのだ」といった声が強くなってきたのです。「同調圧力」という言葉は自粛の強制を非難する側から急速に広まり、「自粛」を後押ししようとする市民や行動を「自粛警察」と呼んで揶揄するようになったりもしたのです*1。
政府の要請に単純に従うべきでないという声は意外と強く、やがて公共の場で他人との距離を保つことを監視して注意する「ソーシャルディスタンス警察」、手洗いの徹底を促すために手洗いをしていない人を指摘する「手洗い警察」、ワクチン接種の有無を確認し接種していない人に対して圧力をかける「ワクチン警察」(そんな人はたくさんいたのかな?)と、政府に従順な人々を笑い者にする風潮は次第に概念を広げていきました。
【日本人は愚かなのか】
もちろん政府の呼びかけに従順な人たちを「~警察」と揶揄する人たちも、全部が全部、自粛はすべきではない、ソーシャルディスタンスは保つべきではないと思っていたわけではありません。彼らは無批判に政府やマスコミの言うことを信じ、政府と同じ倫理観や道徳観をもって他を非難するやり方に異議申し立てをしたのです。
例えば精神科医の和田秀樹は当時こんなふうに言っていました*2。
『政府や分科会が何らかの方針を打ち出すと、テレビをはじめとするメディアの大勢が同調します。
(中略)
国民は、大勢としては賛成のメディアの影響を受けて、政府方針を是とする「世論」を生み出します。たとえば、飲食店に対する政府の自粛要請があれば、「深夜まで営業している店はけしからん」という意見が多数を占めるのです。
(中略)
こうして、互いに同調し合う循環構造が生まれ、その回転音が響くなか、「異論」はノイズとしてかき消されていきます。要するに、この循環構造のなかでは、互いに同調し合うだけで、誰も「自分の頭で考えていない」のです』
和田は日本の対極にある国としてアメリカ合衆国を挙げています。
『欧米、とりわけアメリカは、「人と違う意見をいう」ことをよしとするお国柄です』
しかし政府の言うことを鵜呑みにしないという点では、自由・平等・博愛を旗印に政府を倒し、王を殺した歴史を原点に持つフランスにはかなわないでしょう。
第五共和制初代大統領のシャルル・ド・ゴールをして、
「人間を知れば知るほど、私は、犬が好きになる」
と言わしめたフランス国民は、新型コロナによるロックダウンの際中にもエッフェル塔の下で若者が大騒ぎをして、マクロン大統領を激怒させたりもしています。パリを中心とするロックダウンは断続的に計5カ月も行われましたが、中国の武漢のようにコロナの封じ込めに成功しませんでした。理由は簡単で、ロックダウンなど実はしていなかった、少なくとも国民は自主的な営業、交流を続けていたのです。
フランスの新型コロナの感染者数は3,180万人、死者数は15万人。ロックダウンをしなかった日本の感染者数は302万人で死者数は1万9000人ほどでした。人口は日本の方が1.8倍もありますから、フランスの被害がどれほど大きかったか想像できます。
フランスはこれだけの犠牲を払って自由を守ったすばらしい国で、日本は犠牲を出したくないばかりに「自分の頭で考えない」道を選んだ愚かな国ということになりそうですが、この結論、受け入れられるものでしょうか?
【ガバナビリティ(governability)に優れた人々】
判断が分かれるのは、あのとき日本国民が政府の方針に協力的だったのは、和田が言うように、メディアが政府の方針に同調し、その影響を受けて国民が互いに同調し合っただけで、誰も「自分の頭で考えて」いなかったからなのか、ということです。
「コロナ・ウイルスが蔓延して、病院はひっ迫し、死者も多く出始めているから飲食店や遊技場でのバカ騒ぎはやめましょう。できれば営業を自粛してください、手洗い・マスクを励行し、ソーシャル・ディスタンスを保ちましょう。ワクチンを打ちましょう」
政府のそうした呼びかけに対して多くの国民が納得し、進んで協力しようとした、それが事実であって、お上やマスコミが言ったから黙って従ったという訳ではない、そんなふうに私は思うのです。日本人は和田の言うほどには馬鹿ではないと私は思う。
「手続きを踏んで納得すれば、一丸となって政府に協力できる国民の能力」を被統治能力、英語でガバナビリティ(governability)といいます。日本人はガバナビリティに優れた国民だと考えますが、そうした見方は私が生み出したものでも、私ひとりのものでもありません。アメリカの元大統領ビル・クリントンが言い出したものです。
「私は日本人のガバナビリティが羨ましい」
(それまでガバナビリティはマスメディアによって「統治能力」だと誤解されており「今の日本政府のガバナビリティはまるでなっていない」みたいな使い方をしていましたが、ビル・クリントンの発言で一気にひっくり返り、現在は死語扱いになっています)
世の中のほとんどの問題は「程度の問題」です。自粛監視もわざわざ隣県まで出かけて行ってパチンコ客を盗撮、SNSに上げるところまでやったのはやはりやり過ぎでしょう。しかし人間は果たして同調圧力なしに集団を守り続けることはできるのでしょうか?
先ほども申し上げたように、和田を始めとして同調圧力に否定的な人々は、必ずしも自粛がダメだ、ソーシャル・ディスタンスには意味がないと言っているわけではありません。為政者が言ったからそうする、というような非主体的な態度ではなく、ひとりの自立した人間として自分の頭で考え、判断して、行動しろと言っているのです*3。
ただしそれでも私は疑問に思うのです。人間はそこまで強くなれるのか、自分の周辺に渦巻く様々な事象について、常にひとつひとつ点検し、調査し、判断して意見をもつこと、それが普通の人間にできることなのか、敷居が高過ぎはしまいか、欧米人にはできているのか。
「人と違う意見をいう」ことをよしとするお国柄のアメリカ人が、トランプ派と反トランプ派とでなぜいがみ合わなければならないのも、あれは互いに同調圧力をかけあっているのではないか――。さらに言えばアメリカ人にもフランス人にも、アメリカ人はこうあるべきだ、フランス人はこうあるべきだ、人間はこうあるべきだ、といったそれぞれ共通の概念があり、そうでない者に無言の圧力をかける、そんな日本と同じかたちの同調圧力もあるのではないか、そんなふうにも思っているのです。
(この稿、続く)
*1:自粛警察はなぜ生まれた?コロナ禍が浮き彫りにした「世間」の正体(鴻上 尚史,佐藤 直樹) | 現代新書 | 講談社(3/5)
*2:精神科医が分析「コロナで生じた同調圧力」の背景 「長いものには巻かれない」ための対応策も紹介 | 読書 | 東洋経済オンライン
*3:『この国の政治家には、欧米の政治家のように、大胆な政策変更を提案する力はありません。そこで、私は、1人ひとりの個人が、少しずつでも「自分の生き方を取り戻す」気持ちになることが大事だと思います』(和田秀樹「精神科医が分析「コロナで生じた同調圧力」の背景」)