カイト・カフェ

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「助言の難しい時代」~過保護・過干渉と放任の両極が並立する

 12~3年ほど前まで、非常に口うるさい親とそれに反発する子どもという、図式的な親子関係が大半であって、学級懇談や学年PTAでは「過保護は止めましょう、過干渉は控えましょう」と話していればよい時代がありました。もちろん「放任」というのもあったのですが、それはたいてい『うるさく言われず、のびのびと育っている』というような、どこかに心地よいものを感じさせる言葉でした。それがしばらくすると、ちょっと妙な雰囲気になってきたのです。

 例によって「過保護は止めましょう・過干渉は控えましょう」と話をすると妙にうれしそうにうなづく一団がある、それがこぞって、もっと子どもの面倒を見てほしい、もっと丁寧にやってほしいと思うような保護者たちなのです。その頃になるとマスコミもこぞって「放任」「放任」と言い始めましたので、今度は先の「うれしそうにうなずく一団」を意識して、「もっと丁寧に子どもの面倒をみましょう」と話すと、肝心のその人たちは聞いていず、代わりに過干渉・過保護の一団がうれしそうにうなづくようになる・・・まことにやりにくい時代に入っていきました。

 実は、私には過保護・過干渉、放任ということの意味が良く分かっていなかったのです。今となれば当たり前のことですが、「過保護・過干渉」のグループと「放任」のグループが、今ほど明確に分かれていなかったのです。

 昔も今も、子どものために膨大な時間とエネルギーと金を平気で使う一団がいます(その変種が過保護・過干渉です)。その一方でまったくの放ったらかしという意味での「放任」グループが着実に育ってきました(その極端な形がネグレクト=養育放棄でしょう)。さらにこの「放任」という言葉の中身も変わってきています。

 例えば、
 半世紀も前の子どもたちは「放任」されると親の影響をほとんど受けず、その代わり当時周辺に満ち満ちていた環境、川だとか山だとか森だとか動物たちだとかの影響を受けて育ちました。今の子どもも放任されると親の影響は受けませんが、その代わり受けるのは現代の環境、テレビやテレビゲーム、DVD、インターネットということになります。昔と違って「放っておくと悪影響しか受けない」それが現代なのです。したがって昔許されても今は許されない、そういうことも多くなっています。

 例えば、次のようなことにも注意が必要です。
「この子には、早く好きなことを見つけてその道を歩んでほしい」
(ヤクザとか、強盗とかでもか?)
「勉強なんてできなくてもいい、のびのびと育ってほしい」
(できないにもホドというものがあるだろう・・・)
「結局本人が自覚しないとダメなんですよ」
(そんなふうに悠長に構えていて、一生自覚しなかったらどうするんだ?)
「やっぱり本人が困らないとダメですね」
(取り返しがつかなくなるまで、困らないかもしれないぞ)
「一度、バシッと懲りないとダメですね」
(刑務所に入って反省するまで待ってるつもりか?)
・・・・・・・・・・・・・。