カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「それでも教委や学校長は、よく教師を守ろうとしている」~学校教育冬の時代①

 何度か申し上げたと思いますが、文明というのは本来人間個人が行ってきたことを機械や社会にかたがわりしてもらおうというものです。したがって必然的に人は自立性を失い、極端に依存的になっていきます。つまり、子ども帰りしていくのです。
 大人(昔の人間)だったら当然すべきことも別の誰かにしてもらわなくてはなりません。自分が不幸にならないように常に誰かが見守っていなければならないし、危険な時にはすぐに手を差し伸べ必ず助けてくれる、そう信じて疑いません。いや、信じていることすら意識に上ってきません。

 ただし現実には、その人の生活すべてを救ってくれる機械や社会システムがあるわけではありませんから、時には不幸に見舞われることもあります。その時、人は被害者ですから猛烈な勢いでその補償を求め、担当者に迫ります。担当者が分からなければ、血眼になって「誰のせいで今の自分がこうなのか」捜し求めます。

 そうした極端な文明人の目から見ると、私たち教員は「子どもの成長のすべてに責任のある人」「子どもの成長を保証すべき人」と映っているはずです。私たちは常にそのことを心に銘記しておかねばなりません。プロの教員である以上、子どもに寄り沿い、その心の背景に思いを馳せ、子どもの実態に合わせて指導法を工夫すれば、必ず解決できるはずだと彼らは信じて疑いません(もちろん、「子どもの実態に合わせて、殴ることが必要だと思いました」などというのはダメです)。そしてそうした見方に立つと、子どもや学校が良くならないとしたら、それは教員が「できない」のではなく「しない」からだということになります。
 文明人(子ども)はまた、家の宝ですから「自分は最大限に尊重されて当然」だとも考えています。「訴えが100人の中の一人であっても、その異なる考えを受け止め・・・」といった考え方はそこから出てきます。

 さて、先生方の目にはどう映るか分かりませんが、教委も教育事務所も学校長も、そうした世間に対して結構良く戦っています。市教委には毎月大変な数の抗議がメールなどで寄せられてきますが、そのほとんどを吸収して(市教委として答え)学校に降ろさないようにしてくれています。教育事務所や県教委もさまざまな調査で副校長を苦しめますが、ひとつひとつの抗議に対して対応を求めるようなことはしません。もちろん、難しい問題に関しては重要な八つを跳ね除けるためにそうでない二つを受け取ることはあります。しかし大部分は押しのけるよう努力をしてくれています。ただし、要求の総量が膨大なものになっていますから、二つ引き取っても、それは先生がたにとって大変な負担になる、それもその通りです。

 さて、そんな時代がいつまで続くのか、そして今後どうなっていくのか。それにつては明日にもお話したいと思います。