カイト・カフェ

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「バブルが崩壊して、教師がとつぜん勝ち組になる」~学校と保護者の関係は変わった④

 バブルの間じゅう、教職は忘れ去られた職業だった。
 それがバブル崩壊とともに人気の職業となり、
 人々から妬みそねまれるようになる。
 私たちは二度と社会と仲良くできないかもしれない、
という話。(写真:フォトAC)

【1980年代前半、バブルを目前に会社を辞めた】

 当たったり、外れたり、当たりと思ったものが外れだったり、外れのはずが当たりだったり、人生の選択はままならないものです。
 
 昭和30年代の大学エリートは炭鉱に就職したのです。そこが一番儲かって未来のある世界だったからです。高度成長期が目前に迫っていました。あれこれ有望な職業は山ほどあって、その頂点に炭鉱が君臨していたわけですが、逆側には当時のベンチャー企業、海のものとも山のものともつかないテレビ局があって、みんなが上を上をと目指す中、きちんと就職できなかった人や根性が曲がっていてまっすぐ歩けなかった人たちの一部が、そこに入って行きました。

 それから30年ほど経った昭和60年前後、テレビはみんなが憧れる花形産業で、バブル経済の時期、テレビ局に入るのは至難の業となっていました。界隈の不良中年はデニムのズボンの尻に丸く折った台本を差し込んで、赤坂あたりを跋扈していたのです。その台本が本物だったかどうかは不明ですが、今、テレビ局からはエリートたちが続々逃げ出し始めています。
 
 1983(昭和58)年、私は当時の年齢制限ギリギリの30歳で採用試験に合格し、公立中学校の教員になりました。バブル経済(1986~1991)が目の前に迫っていて、好景気の匂いはあちこちに広がっていました。
 私の前職は学習塾運営会社の社員で、儲けだけを考えればそのまま残る選択肢もありましたが、かなりあくどいやり方をしていて、私はその《あくどさ》に耐えかねて会社を辞め、田舎に引きこもったのです。
 私の去ったあとの会社はそのままバブルの波に乗り、一時はたいへんな収益を上げていたようですが、91年のバブル崩壊とともに規模を極端に縮小し、平成の最後まで細々と続けたあと、なくなってしまったと聞いています。

【バブルが崩壊して、とつぜん勝ち組になる】

 あくどい会社でしたので辞めたことは後悔しませんでしたが、人々が浮かれて暮らすバブル期を、教員として苦しい生活を続けるあいだ、勤めではなく、自分で学習塾を経営する方が楽で儲かったのではないかと何回も思いました。しかし結婚して子どもできて、退職の決断を先延ばしにしているうちにバブルは崩壊し、
「やっぱ、公務員が勝ち組だよな」
と言われる時代が来たのです。

 私自身は採用試験の比較的緩い時期の合格者で、「勝ち抜いた」というほどの気持ちはなかったので戸惑いました。しかもそれを言っているのがつい最近まで社用族と呼ばれ、会社の接待交際費で高級クラブ、料亭、ゴルフなどで遊びまくっていた連中なのです。私も奢ってもらったことがありますが、田舎教師を誘っての私的な飲み会を「接待」にしてしまうわけですから剛毅な時代です。

 私はと言えば作法も振る舞いも分からない高級な場所に連れていかれて、それだけでも肩身が狭いのに、金額を想像すると「オレの分はオレが払う」とはとても言えず、かつての同級生から奢ってもらう。教職は尊い仕事だと分かっていましたが、ひどく惨めな思いでした。何が悲しくて教員になったのだ? 何をやらかしてそんなふうに身をやつしたのだ、口には出さないまでもそんなふうに言われているような気分だったのです。それが突然、1991(平成2)年のある日から、「勝ち組」と呼ばれ、妬み疎ねまれるようになったのです。

【奴らを高く吊るせ】

 西暦2000(平成12)年を中心とするいわゆる「失われた20年」は、誤解を恐れずに言うと公務員が徹底的に叩かれた時代でした。小泉純一郎内閣(2001(平成13)年~2006(平成18)年)が「聖域なき構造改革」と叫んで中央省庁に切り込んでいく姿に、拍手しない国民はいなかったのです。
 国家公務員の総人件費の抑制や天下りの見直し・再就職規制は、小気味よいものとして小泉内閣の支持率を押し上げます。民間に行けば厚遇で迎えられたはずのトップエリートが、地方公務員よりも安い給与で時に1日18時間も働いているという状況を、同情的に顧みる人は少数でした。彼らが「官僚政治打破」と言われて権力を奪われ、高給な再就職先も失っていくのを見ることは小気味いいことでした。

 学校ではそれに先立って1994(平成6)年、愛知県で起こった中学生いじめ自殺事件が発端となり、全国の教職員が学校以外の場所で職業を明らかにすることが憚られるほどの扱いを受け始めます。この事件では加害者とされた中学生たちも糾弾されることはありませんでした。彼らもまた、学校教育の被害者と目されたからです。
 タイミングの悪いことに1998(平成10)年にいわゆる「ゆとり指導要領」が発表されると、児童生徒の学力低下を不安視する人々から、「教師にゆとりを与えるための“ゆとり教育”か」といった揺さぶりがかかり、2002(平成14)年の完全実施を前に「ゆとり教育」は始まる前から頓挫します。学校五日制で授業時数は減ったのに、指導内容は元に戻って行くのです。教師の負担は否が応にも増しました。

 あまり知られていないことですが2000(平成12)年12月20日、東京都では教職員の昼休みを放課後に取り、16時には退校する「東京方式」と呼ばれる従来の勤務形態が見直され、給食の時間内に昼休みをとる他道府県と同じ方式に変えられます。わずか20分の間に、40人分の日記を読んで感想を書き、宿題に朱を入れながら子どもたちの喫食状況を観察し、同時に自分も昼食を摂るというアクロバティックな時間が、そのまま休憩時間となったのです。
 
 その後2010(平成22)年まで起こったできごとは、先日も書いた通り、総合的な学習の時間の導入、キャリア教育の開始、子どもの登下校の安全対策・見守り隊の結成、授業時数の復旧、全国学テの開始、教員評価・学校評価の義務化、教員免許更新制開始いったところです。
 ただでも苦しい教職は、さらに一気に苦しいものになりました。

【油断してはならない、私たちはすぐまた叩かれるようになる】

 バブル崩壊は一億総中流と呼ばれた国民の一体性を破壊し、“恵まれた人々”と“恵まれない人々”とに分断し、格差を広げました。恵まれない人々の怒りや不満を、政府は公務員を叩くことで乗り切ろうとして、ほぼうまくやりおうせました。現在の教職員と保護者の心理的背反はこうして作られ、今日に至っているのです。

 現在の状況はまさに私が教職に就いた1980年代とそっくりです。いま教員となって現場に向かう若者たちを見て、これを「勝ち組」だと思う人はいないでしょう。人間の善意を信じない人から見れば「何が悲しくて」「何をやらかして」教員になったのだと、首を傾げたくなるところかもしれません。
 しかし私たちは忘れていません。少し状況が変わるだけで、一瞬にして私たちは「勝ち組」に祭り上げられ、やがて叩かれるのです。もう誰とも仲良くできないのです。
(この稿、続く)