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「余談:学校の働き方改革が進まないわけ」~学校から水泳指導がなくなる⓪

 夏休み中の学校の、プール開放がなくなりつつある。
 それは学校からプール自体がなくなってしまう前兆である。
 かつて水泳指導は、学校の最重要指導項目のひとつだった。しかし、
 キャリアパスポートや道徳所見のため、諦めざるを得ないのだ。
という話。(写真:フォトAC)

【保身と非難されても、やがて学校のプールはなくなる】

 夏休み中にプールを開放する学校が少なくなっている、というニュースが朝日新聞デジタルに出ていました。
夏休みの水泳指導、取りやめ相次ぐ理由 子の泳力に影響、懸念の声も(2024.08.01)
 取りやめの理由を、東京都新宿区のある小学校長は、
「真夏に登校させるのは熱中症のリスクがある。教員の働き方改革が必要であることも考慮した」
と説明しているようです。

 確かにここ数年のように気温が高いと、水泳のためだけに登校させることに抵抗感をもつ校長が出るのは、不思議ではありません。万が一ひとりでも倒れて救急搬送されるだけでも大変ですし、死者でも出ようものなら保護者、マスメディア、ネットメディアにどれほど叩かれるか分からないからです。昔と違って、北は北海道から南は九州・沖縄まで、全国津々浦々から抗議の声が殺到します。学校・教委は機能不全に陥らざるを得ません。
 いやそんなことよりまず、自分の管理下で子どもが死ぬこと自体が、教員としての自らの経歴を踏み潰すようなものですから、絶対に避けたいのです。これだけ熱中症の危険が叫ばれる中で、真夏に学校に来させた判断は何だったのかと――。
 
 したがって少しでも不安があるようならプール開放はやめるしかありませんし、「熱中症回避」の旗を振り回せば、たいていの親はそれでもやってくれとは言わないでしょう。
 ムリにがんばることはありません。「校長はすぐに保身に走る」などと非難されますが、注意深く生きないと首はいくつあっても足りないのです。

 ただし学校のプール開放の縮小は今に始まったことではありません――と書いて、学校のプールの歴史や変遷を一渡り見渡して書こうとしたら、とてもではありませんが一日分に収まらなくなってしまいました。土日を挟んで文章を区切るのも何となく気が進まないので、「やがて水泳指導はなくなってしまう。水難の時代がやってくる」という趣旨の話は来週に回したいと思います。

【余談:働き方改革が進まないわけ】

 私は典型的な昭和型の教師で、中途半端な改革をするよりは全部を昭和に戻した方が、解決が早いと信じている頑固者です。部活の地域移行を筆頭にさまざまな改革が上手く行かないのは、現在学校に持ち込まれているものに悪いものはなく、特に古くから学校に残っている者には、それぞれに価値を信じている先生が少なくないからからです。
 
 SNS上ではBDT(部活大好きティーチャ―)と揶揄される教師たちも、そして一部の生徒や保護者も、部活動の教育的効果を信じ切っているから地域移行には強く抵抗します。巷間言われるように「自身がやりたいから」「部活を足場に出世したいから」「教室より指示が通りやすいから」といった個人的な理由から土日休日を返上してまでも戦っているのではありません。
 
 同じように「清掃指導は1000年の昔から効果を保障された重要な教育活動だから、1日も欠かしてはならない」と固く信じている教員もいます。例えば私がそうです。
 さらにあるいは、合唱こそが児童生徒の心を洗い、子どもどうしの繋がりをつくる最も効果的な方法だと信じ込んで毎朝の合唱を欠かさない教員もいます。児童生徒の日記を、教師と子どもの交換日記のようにして、それを指導の足場とする教師もいれば、学級通信が武器だという人も、朝の担任講話が命だという教員(これも私)も、通知票の所見欄で保護者と繋がるという教師(これも私)もいます。その人たちからすれば自分の得意技、指導の要がなくなるのと同様ですから、教育の武装解除と同じ、子どもと戦えなくなると本気で思っています。だから素直に応じません。
 水泳指導も、子どもの命を守るという意味では自治体が責任をもってプール改修・新設を進め、毎年最低10時間の授業時数を確保すべきだと強く思っている教師がいます(私もそれです)。そうした人々が民間委託に静かに抵抗するから、なかなかすっきりとはしません。

【ほとんどの先生が「やめた方がいい」と考えているものがある】

 では何でもかんでも学校に残しておけというのかといえば、それも違います。そうではなく、教員に多数決をさせれば、多分なくす方向で簡単に合意形成のできる項目はいくつもあるはずです。
 例えばキャリアパスポート。「あれが私の武器だ。なくされては困る」と強く主張する先生はどれほどおられますか?
 指導要録の「特別な教科道徳」や「総合的な学習の時間」の所見、あれがあった方がいいという先生も少ないでしょう――というか、まずいないでしょう。書いた本人と点検者以外、誰も読まない記録です。あれが指導要録にあるから通知票にも載せたくなるのです。個人に関する情報を学校の機密事項のようにしてしまうことに、何となく後ろめたいひとが保護者に匂わせることくらいはしておいた方がいいと考え、通知票に記入欄ができてしまいます。要録に欄がなければ、通知票からも欄が消えます。
 いや、そもそも「特別な教科道徳」も「総合的な学習の時間」も,なくなっても一向に困らんでしょう。あんなものはなくても、昭和時代はけっこううまくやれてこられたのです。道徳は昔のままの「道徳」でかまいませんし、「総合的な学習の時間」は教師の独創性が問われるとか個性が試されるとか言いますが、そんなもの問うてくれなくてもけっこうなのです。独創性や個性の尊重は教科教育や特別活動で十分です。

【どうでもいいものを残すために、大切なものを削ろうとする】

 小学校英語だのプログラミング教育だの、コンピュータ・リテラシーだの、性教育だの、環境教育だの、昭和22年の教育基本法・学校教育法制定時にはなかった教育については全部なくなってもかまいません。あれこれ具体的に細かに学ぶより、国語・数学・理科・社会・英語・音楽・美術・体育・技術家庭科といった基礎教科をしっかり学び、人間関係の調整力をつけ、健康な体づくりができれば、あとは何とでもなります。
 義務教育の時期から手術の方法を学ばなくても医者にはなれますし、車の運転技術を身につけなくても大人になってから十分に間に合います。
 
 しかしここ30年くらいの間に急に湧き出て来て、現場の教師たちが共通に「あんなもの、なくなればいいのに」と思っているものにはいっさい手をつけず、大事だと強くこだわる先生のいるものから順に手をつけようとするから、教師の業務は少しも減らない、働き方改革は少しも進まないのです。