カイト・カフェ

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「私だって専門家だ。やりたいこともやれることもある」~今の働き方改革は教師を幸せにするのだろうか⑤

 教師の質が下がったわけではない。とにかく仕事を増やし過ぎた。
 その増やした部分を生かすために、古く定評ある部分を捨てざるを得ない。
 部活も進路指導も子どもや家庭への支援も、専門家に任せるべきだと言う。
 そんな専門家がいるかどうかは知らんけど――。
 という話。(写真:フォトAC)

【道具は奪って、ロクでもない仕事を増やした】

 古い人間は古いものごと・古い制度に固執したがるものです。したがって私がこれから申し上げることも、単なるノスタル爺のノスタルジーなのかもしれませんが、しかし私には理解できないのです。

 生活にメリハリをつけるための各種儀式や体育行事、修学旅行など旅行行事や文化的行事、農業体験やボランティア活動、学級内での話し合いや児童生徒会、班や係の活動、清掃――こうした学びよりも、総合的な学習の時間や小学校英語、プログラミング学習やキャリアパスポートを始めとするキャリア教育など、新しい教育、追加教育の方が価値あると、どうしていえるのか――。

 若い人たちはすぐに「エビデンスはあるのか」といった言い方をしますが、私こそ問いたい。公教育が小学生のころから週一回程度の英語学習を始めれば、国民の英語力が高まるとどこの国が証明したのか。言語体系がかなり異なる日本人でも、小学校から学ぶことで誰でも英語を喋れる時代がくると、どれだけ確かな研究成果があるのか。
 私がいま英語をまったく話せないのは、英語学習を中学校から始めたからであって、小学生のころから毎週1時間程度やっていれば、今ごろはアメリカ人と楽しく会話ができたのだろうか。英語が喋れることは、運動会や体育祭で頑張ったり、文化祭に青春をかけたりすることよりも、ずっと価値の高いことなのか――。

《学校をつまらないものにする行事の精選や、うまく行きっこない部活の地域移行に反対する》
と言えば蛇蝎のごとく嫌い怒る人もいるかもしれませんが、現今の教師が苦しいのは、昭和の教師から(善悪は別として)体罰や威圧・脅迫といった秩序維持のための道具を奪った上に、追加教育に追加教育を重ね、教員評価だの全国学力学習状況調査だのといった査定を増やしたからに過ぎません。昭和の教師はキャリア教育もコンピュータ教育も、ましてや週に2時間も食う総合的な学習の時間も背負っていなかったのです。
 体罰や威圧・脅迫がダメだ、などということは百も承知です。しかしそれをいっさいなくそうとしたとき、同時に校内の法整備を一律に行うとか教員の数を増やすとか、何らかの手を打たなくてはならなかったはずです。追加教育にも抵抗すべきでした。

 学校に持ち込まれるもので、悪いものはひとつもありません。しかしいまや一人の教師が背負える量をはるかに越えてしまって、それが現今の過剰労働を招いているのです。何かをやめなければいけない。減らせないなら分割しなくてはいけない。けれど個々の教師には、減らしてほしいものと減らされて困るものがあるのです。

【私ならここまで担ってもいい】 

 私個人について言えば、学校の仕事のうち、生徒指導に類する仕事は全部自分でやりたい。
 特に不良がかった子どもたちとの対決は続けて行きたい。私にはあの子たちと付き合う意志と技能とエネルギーがあります。児童生徒が万引きで補導されたと聞いたら、夜でも保護者と連れ立って引き取りに行きたい、一緒に頭を下げたい、じっくり話を聞きたい――。
 不登校についてはついに答えが見つかりませんでしたが、子どものそばに一緒に長くいてやることくらいはできます。発達障害についてもたくさん勉強しましたから個々の子どもに対応していきたい、支援していきたい、保護者とともに考えていきたい――。
 
 その他、子育てや教育が分からなくなって困り果てたり途方にくれたりしている保護者の相談にも乗ってあげたい。彼らも元を質せば私たちの教え子なのです。こちらはプロなのですから、一緒に考え、何か言ってあげられることもあるはずです。
 
 授業は――道徳が好きですからこれは熱心にやりたい。たっぷり時間をかけて教材研究をし、子どもたちに生き方を問いたい――。
 他には、顧問を持つ人がいなければ部活はやってもいい、何を置いてもやりたいわけではないが逃げ回ることもない。だって青春の一部をスポーツや芸術にかける子どもたちと、一緒に歩んで高みを目指し、一喜一憂、喜怒哀楽、誠心誠意、刻苦勉励、自分の持てる時間とエネルギーを注ぎ込むって素敵じゃないですか。顧問でなければ得られない幸せがあります。
 
 しかし総合的な学習の時間は勘弁してほしい。独創性の高い仕事は私に向いていません。中学校社会科の教科担任や小学校教諭としての教科の授業も、できればもうやりたくない。かつて最も熱心に取り組んだ分野ですが、そろそろ「お腹いっぱい」です。どうやら教科指導に私の《伸びしろ》はないようなのです。
 もうひとつ――道徳の授業は好きでも文章で記入する「評価」はまっぴらです。教員評価だの学校評価だの平成以降に新設され事務仕事の一切も、実は誰かにやってほしい。

【私だって専門家だ。やりたいこともやれることもある】

 ひとことで言えば私は「生徒指導や道徳が大好きで、保護者対応も苦にしない、敢えて言えば、生徒指導と道徳の授業をしたいために、教科指導や総合的な学習の時間を我慢して指導してきたようなもので、部活指導までは引き受けてもいいが余計な事務仕事はしたくない」と、そんな教師です(でした)。
 
 そうした私に、一律に「放課後から夜間における見回り、児童生徒が補導されたときの対応は基本的に学校以外が担うべき業務(だからやるべきではない)」とか、「『学校行事の準備運営』『進路指導』『支援が必要な児童生徒・家庭への対応』なども専門スタッフに切り替えていくべきだ」と言ったとき、私の心の中に何が起こるのでしょう、私は何を感じるのか――。
 
 私だって資格がないだけで、専門家のつもりではあるのです。何十年も教師をやってきて、生徒指導にも教科指導にも部活指導にも、真面目に一生懸命、研鑽を積んできたという誇りもあります。それなのに「専門家に任せ、背後に下がれ」と言われる。
 もちろん強力な専門家を各校平均で十数人も送り込んでくれるなら、黙って静かに引き下がります。しかしその“専門家”が無能だったり人数が揃わなかったりしたら、私は激しく傷つき、意欲を失うことになります。
 中教審「質の高い教師の確保特別部会」の提言は、そうした危険をはらんだものです。
 
 あれもこれも、専門外で無能なお前ら教師に任せて悪かった。これからは手を引いて専門家に任せてもらおう(そんな専門家がホントにいるかは、知らんけど)。そんな声を聞いてやる気の出る教師などいるでしょうか?
 仕事を少し楽にして給与を上げれば、尻尾を振って働くと考えたとしたら、あまりにも傲慢です。

(参考)

kite-cafe.hatenablog.com