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「しつけも部活も学校の仕事として受け入れるしかない」~少子高齢化が教員の働き方改革を阻害する④

 「子育ては保育園と学校が面倒を見ます」
 暗にそう言ってきた以上、政府に教育の大風呂敷はたためない。
 しつけは学校の重要な指導項目だ。
 部活も完全に切り離すことは難しい。
という話。(写真:フォトAC)

【子どものしつけは誰の責任か】

 しつけという言葉はボンヤリ使う場合が多いので改めて定義しようとすると厄介です。しかしおそらく、一部は「挨拶をする」とか「目上の人にはそれなりの言葉遣いをする」とかいった生活上のマナー・ルール・道徳の問題であり、もう一部は「食事をしたら歯を磨く」とか「きちんと服をたたむ」とか「着る」とか、要するに生活自立に関わる能力・習慣のことを言うと思われます。大人に対しても使わないわけではありませんが、基本的には幼児教育に関わる内容です。
 そのしつけについてSNSではしばしば、「学校は勉強をするところであり、しつけは家庭に返すべきだ」といった意見を見ることがあります。しかし法律上も、そして現実的にも、それは間違った考え方です。
 
 まず法律ですが、学校教育法第二十一条にはこんな文言があります。
義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第五条第二項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
 これはまさに生活自立とマナー・ルール・道徳の問題でしょう? ちなみに教育基本法第五条第二項に規定する「目的」も、次のようになっています。
第五条 2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。
 法律上、しつけは学校の重要な指導項目です。

【学校でしか身につかない“しつけ”があり、任せられない家庭がある】

 最近は熱中症を怖れて授業中に水筒の水を自由に飲ませる担任も多いといいますし(ホントかな?)、生理的欲求を押さえることは虐待に当たるとかで、授業中にトイレに行きたくなったら他の人の迷惑にならないよう静かに席を離れ、自由に行ってきていいことになっているとか(ホントかな?)いいますが(*1)、大人になれば工場の生産ラインに並ぶ労働者や銀行の窓口、手術中の外科医や授業中の教師など、一定の時間、簡単に離席したり給水したりできない仕事はいくらでもあります。そうした職業についても困らないように、何かあれば事前にトイレを済ませ、給水し、準備を万端に整えて事に当たる能力は、子どものころから身に着けておきたいものです。もちろん十分な準備をした上でそれでも何かの事情でどうしてもトイレに行きたくなったら、きちんとした手続きを踏んで(挙手をして教師の注意を促し、事情を説明して、了解を得るなど)、自分を守る能力もつけておくことも必要です。
 こうしたしつけは学校だからできるものであって、家庭ではなかなかできないことです。
*1:こうした立場に立つ学校では、睡魔に襲われた子どもは寝たまま起こしてもらえないのでしょうか?
 
 また、しつけやしつけのし直しが必要な子(そんな子は大勢いるわけではないのですが)の家は、たいてい子どもを返してもしつけのし直しなどしてくれそうにない(能力としてできない)家ばかりです。とてもではありませんが家庭に任せる気にはなりませんし、《そうした保護者の能力差を縮めるのが学校じゃないか》という思いが私にはあるのです。
 実際に「お宅のお子さん、授業中におしゃべりばかりしていて困ります」とか、「忘れ物が多すぎます。きちんとしつけてください」とお願いしても、それで上手く行った試しなどないはずです。
 保護者の方も、内心で、
「学校のことは学校でやってくれよ、プロだろ? 我が子とは言え、俺たちにはもうどうにもできないんだ」
と叫んでいるに違いありません。

【部活動は生まれながらの鬼子。本当に始末が悪い】

 部活動は学校教育の鬼子です。1958年(昭和33年)の学習指導要領で特別活動の一部、クラブ活動として出発したその日からずっと、学校教育の中核であり異端でした。

 中核であるというのは、あきらかに教育的効果が高かったこと、学校内で唯一「選択的に学べる場」であって、それだけに最初から生徒に高い動機付けが期待できたこと、部活をやるために入学し部活があるので学校生活を生き生きと送れる子たちがいたこと、部活でしか有能感・自己肯定感の得られない子たちがいること、一部の子は生涯スポーツ生涯学習、あるいは職業へとつなげられたことが可能だったこと、などによります。

 異端であるのは、何と言っても活動が教員の勤務時間の枠を越えてしまうこと、最初から“生徒の自主的活動”と位置付けてしまったため止められないこと、試合など対外関係がすぐに生じて各校の独自性が失われやすいこと、休日の送り迎えなど、常時家庭の助けを必要とすること、などです。

 中核であり異端であるため、部活動は特別活動の枠から飛び出したり戻ったり、常に落ち着かない動きをしてきました。現在は学習指導要領総則に次のように書かれています。
教育課程外の学校教育活動と教育課程の関連が図られるように留意するものとする。特に、生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動については、スポーツや文化、科学等に親しませ、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等、学校教育が目指す資質・能力の育成に資するものであり、学校教育の一環として、教育課程との関連が図られるよう留意すること。
「学校教育の一環」だが「教育課程外」ということのようですが、やはりよく分かりません。

【おそらく中途半端に残って、さらに悩ましくなる】

 教員の時間外労働の大きな部分を占める部活動は、学校から切り離す(=地域に移行する)という方向ではっきりしていますが、もう20年も前から取り組んでいるのにいまだに達成されないのは、誰も本気でそれを望んでいないからです。
 授業に引き続いて学校で行ってくれる部活は生徒・保護者双方にとって楽ですし、背後に校長・教育委員会がついている点で保護者はさまざまに安心できます。選択肢が多く、市内に同様のクラブチームがあることは稀ですし、何と言っても無料で、時間的にも保護者の負担がほとんどないというのが最大の魅力です。
 地域の人たちにとって、部活が移って来ることに何のメリットもありません。面倒事が増えるだけです。
 地方自治体、特に市町村教委は地域移行に伴う様々なクレームの可能性に怯えています。”どこぞの自治体で外部コーチが生徒と性的関係を持った”といった情報が出て来ると、聞いただけでも震えます。これが教員の犯罪だったら半分以上は都道府県が責任を負ってくれますが、市町村雇い入れの外部コーチではムリです。さりとて人を選んでいられるほど人材があるわけでもない。
 政府は、部活動がなくなって地域のスポーツクラブに子どもが移ると、それに合わせて働く母親の勤務形態が変わるのを怖れています。「子育ては保育園と学校が面倒を見ます」と暗に言ってきた以上、部活の地域移行が保護者に実害(送り迎えや費用の負担)を与え始めると、「保育園落ちた、日本死ね!」の時と同じように国会議員から突き上げられるかもしれません。
 BDT(部活大好きティーチャ―)と一部から揶揄される先生たちも、部活の地域移行にはいい顔をしません。「部活をやりたい先生は地域でやればいいじゃないか」と言いますが、A中学校の先生がA地区に移行したバスケットボール部の顧問を続けるとして、その先生が遠く離れたB地区のB中学校に転任したらそこのバスケットボール部も顧問がいなくて困っていた、さてどうする?――いかにもありそうなこの事態に、ひとりで対処しなくてはなりません。ほぼ全員が顧問だった昔なら簡単だったのに、あちこちから請われ、離れれば憎まれる。そんなことは御免です、
 結局、部活動を地域に移行したいと本気で考えているのは、指導に疲れた一部の教員と、学校に不信感を持ち、人材は学校の外にいると信じこんでいる一部の保護者だけなのです。
 
 私に何か名案があるわけではありません。ただ、学校から部活を完全になくすことは、5年や10年で達成できることではない、だからなくせないことを前提に、ここしばらくのこと考えるしかないと思うのです。
(この稿、続く)

《参考》

kite-cafe.hatenablog.com

 kite-cafe.hatenablog.com