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「いっそ学校の教育課程を昭和に戻そう」~少子高齢化が教員の働き方改革を阻害する③

 平成以降の教育改革は目指すものが高すぎた。
 教師のやることは多すぎるが、実りは余りにも少ない。
 そしてそれどころか、
 基本的で大切なものがごっそり、失われようとしている。
という話。(写真:フォトAC)

【学校の教育課程を昭和に戻せ】

 躾も家庭学習も部活動も、勤務時間外の子どもの活動にも、学校は関与してある程度責任を負っていくべきだ、というお話をします。ただ、それだけだととんでもない反発を受けそうですし、反発はかまいませんがこの先を読んでもらえないのは困ります。また、そもそも教員の働き方改革の時代にそんなことを言っても、言っただけでは実現する可能性もありません。
 そこで、これまでも再三申し上げていることですが、私の選って立つ立場というか、基礎としている考え方を記して、それから本題に入って行こうと思います。

 それはひとことで言えば「学校の教育課程を昭和に戻せ」というものです。復古主義や懐古趣味ではありません。現在の教育課程は第二次世界大戦後から時間をかけてつくられたしっかりとした学校教育の基礎の上に、平成以降、「生活科」だの「総合的な学習の時間」だの「特別の教科道徳」だの、あるいはキャリア教育を始めとする膨大な「追加教育」だのをてんこ盛りに積み上げて身動き取れなくなったものです。
 あまりにも巨大になりすぎて手に負えなくなった学校教育のてんこ盛りを正すために、「何でもかんでも乗せすぎた」という政府・文科省の反省からではなく、「教員がもたなくなった」「教員の力が及ばなくなった」「教員の志望者が減った」という、教師の問題性から始まったのが「教員の働き方改革」という見直しです。

【日本人の美徳は、学ばなくても発揮できる本能のようなものなのか?】

 その改革が「あとから乗せすぎたもの」を減らすのではなく、「もともとあったもの」――例えば運動会・音楽会などの学校行事、清掃活動や児童生徒会活動、部活動などを削ることによって行おうとしたのは、それらが古い教育で、目指したものはそれらがなくてもできると誤解されているからかもしれません。
 
 日本人が日本人である限り、特に学校で教育しなくても、ゴミは分別してゴミステーションに出すし、自分が屋外でつくったゴミは持ち帰るようにして街の美化に寄与するし、災害にあってはうろたえて大騒ぎをし自然災害を人災に変えてしまうようなことはしないし、避難所では運営の一部を担って係活動を行い、避難民としてものを受け取るにもきちんと並び、分配された量に満足して決して奪い合いはしない、航空機事故でもわれ先に逃げるのではなく互いに声を掛け合い、牽制しあい、しかし順番を守ってきちんと脱出しようとする、それが一番早い避難方法だと知っているからだ――と、こんなふうに書き連ねるときりのない日本人の美徳は、私たちの体内に宿った固有のDNAのなせる業であって、教育や訓練などする必要がない、もしくは少し練習するだけで日本人なら誰でもできるようになると、そんなふうに思い込んでいるようなのです。
 
 しかし教育者はそんなふうに考えません。基本的に人間は学ばなかったことはできませんし、練習しなかったことは“より良く”できないのです。もちろん教育は学校のみが行うものではなく、家庭教育があり、住民が自然に行う地域の教育があり、企業内教育も、あるいは「他人の目」「雰囲気」といった見えない力が行う社会的な教育もあります。
 しかし全国一律に、意図的・計画的に、しかも継続的に行っているのは、日本では学校だけです(諸外国には教会や党中央が行っている例もあります)。

【平成以降の教育の高邁さ、高すぎる要求】

 総合的な学習や生活科、キャリア教育などの理念は、現実の、生身の子どもには高邁すぎたのです。もちろんそれで力の伸ばせる優秀なお子さんもいますが、大部分の子どもは英語やプログラミングを習うより、きちんと挨拶ができて掃除ができて、公共のものを大切にし、道路や公園を汚さず、盗まず、欺かず、日常生活を整然と過ごせるようになることの方がよほど価値があります。堪能な英会話やコンピュータ・プログラミング、あるいはプログラミング的思考ができることより、仲間とのコミュニケーションが取れて分業や協業のきちんとできる子の方が、職場ではよほど大切にされます。
 それに、小学生のころから英語やプログラミング学習を始めれば英語力やプログラミング能力が高まるとは、必ずしも言えません。実際のところ、かつてはスタートラインが一緒で子どもたちが目を輝かせて取り掛かっていた中学校の英語に、今はウンザリとして目の淀んだ一年生が入ってきます。小学校で明らかに遅れてしまい、何の希望も持てない子たちです。こんなことになって、小学校英語、ほんとうにやるべきことだったのでしょうか。
 
 外国人観光客が賞賛してやまない街の美しさや清潔さ、人々の優しさやおもてなしの心。危機や災害に対して忍耐強く整然と対応できることや日常の静けさは、総合的な学習の時間がなくても、ICT教育を受けなくても、日々の特別活動や道徳の学習の中で十分に身に着けることのできるものです。その方がよほど大事でしょ?
 平成以降に学校が担おうとした分不相応にレベルの高い学習を棄て、もう一度基本に帰ろう、足元をしっかりして、真に日本人らしい日本人を育てようというのが私の立場です。

【この国の以前の教育を失いたくない】

 日本の教育はダメだと訴える人たちがいると、私はいつも訊いて回りました。だったらどこの国の教育がよくて、日本はどこを目指し、どこを手本とすればいいのかと。
 時期によってシンガポールだのフィンランドだの、さまざまな国名が上がることもありました。しかし内実が知られるようになると、誰もその国のことを言わなくなります。
 
 アメリカの学校の自由な雰囲気とインドの高い計算能力、PISAなどで圧倒する中国都市部の子どもたちのとんでもなく高い学力、ドイツの半日学校、イギリスのパブリックスクール、ザ・ナインの気品と責任感、そうしたものを兼ね備えた教育――と、そんな言い方をする人もいます。しかし教育は有機的な繋がりの上に成り立っていますから、あれこれパッチワークのように詰め込める学校はおそらくネバーランド(どこにもない国)にしかないのです。

 今や日本の手本となるべき教育を、国名で答えられる人はいません。総合的に見て日本より優れた初等中等教育を行っている国はないからです。あればその国の名が挙がってくるはずです。
 もちろん日本の教育にもあれこれ欠点はあります。しかしこれまで30年に渡って続けられてきた「教育再生」は、まさにその小さな欠点の「角を矯めて牛を殺す」行為だったのです。今まさに日本の、日本人による、日本人を日本人にするための教育は失われようとしています。私には、それが一番不安なのです。
(この稿、続く)