カイト・カフェ

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「部活がなくなるわけがない」~私の“教員の働き方改革”案① 

 教員の働き方改革というと必ず問題になるのが部活。
 時間外労働が常態となっているためだ。
 しかし部活をあれこれ考えているうちは、働き方改革は進まない。
 なぜなら部活は、なくすことも学校から切り離すことも絶対にできないからだ。

という話。  

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(写真:フォトAC)
 
 

【教員以外の、誰も部活の縮小を望んでいない】

 教員の働き方改革と言ったとき、真っ先にやり玉に挙げられるのは部活動です。部活動が勤務時間外に行われ、土日も休めない原因の重大なひとつであることは明らかだからです。
 しかしこの問題をいじっている限り、教員の働き方改革は一歩も進まないと私は思っています。もしかしたら文科省はこの地点でいつまでグダグダやることで時間を稼いでいるのかもしれないと疑うくらいです。いずれ教員定数を増やすにしても、もう少しうしろに引っ張りたい、それが財務省の本音かもしれません。

 なぜ部活は廃止または縮小または移転が効かないかというと、それを本気で言い立てている人間は教員、しかも中高の教員の中にしかいないからです。

 部活動が縮小されたところで小学校の負担が減るわけではありませんから、とりあえず小学校の先生たちは無関心です。子どもたちの大半は部活が大好きで、中には辞めたいと思っている子もいますが、それは「自分が辞めたい」のであって、中高から部活をなくすべきだと思っている子はほとんどいません。

 保護者でも部活動の廃止または縮小を望んでいる人はごくわずかでしょう。部活のあるおかげで放課後の子どもの生活は保障されていますし、土日の少なくとも一方は子どものいない時間を十分に活用できるからです。
 別に遊んでいようというわけではありません。特に共稼ぎの家では一週間分の掃除だとか買い物だとか、子どものことを考えずに使える時間がなくては困るのです。

 我が子のスポーツや芸術活動に期待をかけている保護者も少なくありません。プロに育てようというつもりはなくても、生涯スポーツや文化活動は大切だと考える人たちです。
 ウチの子は勉強の方はサッパリだけれど部活だけは楽しくできている、そういうところを大切にしたいと思う親もいますし、試合やコンクールで我が子が生き生きと活躍する姿を見るのが何よりの楽しみだという保護者もいます。彼らの一部は子どもの“追っかけ”です。

 部活動から世界に通用するアスリートや芸術家が出てくることはさほど多くありません。ほとんどがスイミングスクールや卓球教室、あるいはリトルリーグやサッカースクール、さらにはピアノ教室やらバレエ教室を経てきます。
 しかしスポーツや芸能の興隆はそうした学校外の教育機関だけで達成できるものではありません。部活動の広い裾野があってこそ全体のレベルは上昇し、世界に通用する人材が出現するのです。その意味で部活動の廃止または極端な縮小という話になったら、日本ナントカ協会だとかカントカ連盟といったところから一斉に反対ののろしが上がるはずです。

 運動用具メーカーだとか楽器メーカーあたりも暗躍し始めます。部活動がなくなったら剣道だの吹奏楽だのといったマイナーな部門の商品を扱うメーカーは、一斉に枕を並べて討ち死にしなくてはならないからです。
 
 

【あれほどシンドイ部活動に、なぜ教師はのめり込んでいくのか】

 部活動の廃止や縮小を許さないグループは学校の中からも出現します。部活に特に熱心な教師の一群です。
「だったらやりたい人がやればいい」という言い方をする人もいますが、その動機を聞けば穏やかでいられなくなるでしょう。彼らは単に好きだからやっているわけではないからです。

 もちろんそもそもスポーツ振興が目的で教師になった人はいますし、新人の中には部活動に逃げていると言ってもいい人もいます。
 何といっても部活は「選手になりたい」「勝ちたい」「できるだけ上位の大会で活躍したい」といった共通の意識をもった目的集団ですから御しやすいのです。同年齢・同一地域という以外の何の共通点もない有象無象の集まった“学級”の指導に疲れ、部活指導でバランスをとっている先生も少なくありません。
 逆に技術を極めたベテランの中には、部活が自己実現の場になってしまっている例だってあります。自分が一心に努力した成果が生徒を通して実現していくのです。小気味いいに決まっています。

 しかしそうした人たちも含めて、部活動に熱心な教師たちに情熱は、多くの場合、初心と言っていいほどに純真なところから出てきています。生き馬の目を抜くような汚れた世界で生きる人たちには信じられないかもしれませんが、そうした教師は子どもがほんとうに大事なのです。愛しているのです。

 消極的に言ってこの人たちは、グランドやステージで自分の教え子がなぶり者になることに耐えられません。野球で言えば1回表裏が終わったところで12対0、剣道で言えば開始3秒の一本負け、吹奏楽で言えばだれの耳にもわかるミスの連発――。才能や練習量や質に差はあるにしても、同じ3年間を照る日も曇る日も、雨の日も雪の日も、いちおう努力してきたはずの自分の生徒が、1回の表だけで20分もの守備につき、剣道では試合時間より身支度の方が圧倒的に長く、吹奏楽では自分たちの悪演奏を聞きながらステージに立ち続ける――これではあまりに惨めです。
 そんな子どもたちの惨めさを平気で放置し続けることができるとしたら、それは教師でなくても問題です。

 積極的な理由としては、そこで育つ子がいる、ということです。
 元プロ野球清原和博は昔、「もし野球がなかったら、ワシは極道になるしかなかった」と語ったことがあります。引退後の清原を覚えている人なら、この発言があながち誇張でないことは分かるはずです。結局はダメだった部分はあるにしても、野球のなかった清原の人生を考えると、部活動がいかに重要なのかはどうしても考えざるを得ません。

 部活動にそこに成長の鍵がある、そこにしか成長の鍵がない、そういう子がたくさんいるのです。多様性のある社会の構築などと言っても、学校教育の主軸には9教科しかありません。それ以上の可能性を探ろうとしたら部活に頼るしかないのです。親が自分の活躍や楽しそうな姿に心躍らせるように、教師もまた胸を躍らせています。
 
 

【事態はもっと深刻だ】

 こんなにも多くの人が部活動を支持し、必要とし、生きがいにしている、だから部活の縮小は諦めろという話をしているのではありません。事態はもっと深刻です。
 部活動の維持存続を望む人々がこれだけ多い中で行う制度改革は、よほど注意して行わないと教員をむしろ追いつめる方向に働くということです。これまでがずっとそうでしたから。

(この稿、続く)