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「『光る君へ』:百人一首の人々」~大河ドラマのこれまでにない見方

 大河ドラマは文化の継承、視聴率など気にする必要はない。
 そのうえ平安中期はこれといった事件もないから、
 ドラマは自由に進むだろう。

 だが、私たちは意外とこの時代の人々に詳しいのだ。
という話。(写真:フォトAC)

NHK大河ドラマには特別な役割がある】

 1月1日(日)の能登半島地震のため、民放の人気特番「芸能人格付けチェック」が7日(日)に延期になって、それとバッティングした新大河ドラマ「光る君へ」が割を食ったみたいです。大河の第一回目としては、記録的に視聴率が悪かったようなのです。しかしドラマ自体の評判はよく、今後《派手な合戦場面が期待できない大河は視聴率を落とす》という前例を崩して、大きな成果を上げるかもしれません。

 もっとも前々から申し上げている通り、公共放送であるNHKには数字では計れない重要な使命があって、視聴率などいちいち気にしていられない事情があります。それは文化の継承ということです。もはや民放で連続時代劇がなくなってしまった以上、時代考証的な知の集積・継承は大河ドラマなどのNHKに頼むしかないのです。特に所作や景観などは映像として残すことが是非とも必要で、その意味ではどんなに低視聴率であろうと、あるいはどんなに金がかかろうとも、大河は丁寧なドラマ作りをして証拠を残していく必要があります。
 
 さらに同じ理由から、奇抜な演出は避け、基本に忠実で、安定したドラマを創り上げてもらうことも必要です。
 「どうする家康」はその点で失格で、奇をてらうばかりに家康夫人の築山殿が高邁な政治思想家だったり、信長と家康の間に同性愛的傾向があったり――羽柴秀吉は下品な成り上がり者のままで、明智光秀も薄っぺらな権力追及者、そんなふうだと古くからの大河ファンは納得しません。別ドラマだと言っても「麒麟がくる」以来、光秀にはもっと深みのある印象がついて回っているのです。今さら悪者光秀を受け入れる余地はありません。

 もっとも「光る君へ」の主人公紫式部には、家康や光秀のような類型化した印象がほとんどありませんからもともと有利だという側面もあります。登場人物の大部分は未知の人ですし、人物像を固定化してしまうような“事実”もほとんど知られていません。
 桶狭間で戦いを仕掛けるようなひとだから勇猛果敢に違いないとか、権力が転がり込むのを、焦らずじっくりと待つことができたからなかなかのタヌキだわ、ということにもならないのです。脚本家は自由に想像を膨らませることができますし、視聴者も先入観なしに待つことができます。

百人一首の人々:大河ドラマのこれまでにない見方】

 ただ、私たちは紫式部の周辺の人々に、思わぬ知己が大勢いることを思い出さなくてはいけません。例えば早くも第三回(1/21)に登場した赤染衛門百人一首五十九番の、
「やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」
で知られる歌人で、「栄花物語正編三十巻」の作者としても有力視される人物です。
 この回では後に藤原道長正室となる藤原倫子に仕え、倫子のサロンの指南役といった立場で登場するのですが、やがて道長と倫子の娘が中宮彰子となってそこに紫式部が出仕することになりますから、ふたりの才女(赤染衛門紫式部)の歴史的位置関係はとても分かりやすいものになってきます。
 
 あるいは第三回までの登場人物の中で特に重要な一族として藤原道長の親兄弟が出てきますが、道長の兄の道隆の娘が中宮定子、その定子に使えるのが清少納言と、またひとり才女が加わるわけです。

 さらに見ていくとひと世代上、道長・道隆兄弟の父・藤原兼家の近くにも重要な人物がいます。

【才媛・才女が続々・・・】

 兼家は現在のところもっともあくどい人物で、権力を手に入れるための権謀術数に日々忙しいのですが、同時に、飛び抜けて嫉妬深い第二夫人と間で、激しく難しいやり取りも余儀なくされていました。

 若いころは日本三大美人のひとりとされ、権力者の妻にも選ばれて栄光を極めたかのように見えたその女性は、正室である時姫(ときひめ)のようにたくさんの子どもを産めなかったことで兼家から疎まれ、疎遠になり、忘れ去られて行きます。彼女はそうした関係を陽炎のようだと嘆き、日記にまとめるのですが、それが有名な「蜻蛉日記」。作者は藤原道綱の母と呼ばれ、ドラマでは昨夜、財前直見さんが演じていました(ちなみに道綱を演じたのは上地雄輔さん)。
 しかしこの道綱の母、一般にはむしろ百人一首の五三番、
「なげきつつ ひとりぬる夜の あくるまは いかに久しき ものとかはしる」
の作者として有名なのかもしれません。

 さらに記憶を巡ると、和泉式部も同時代人。だから娘の小式部内侍も同時代人。「いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひぬるかな」伊勢大輔は、奈良の桜を受け取る重要な役目を紫式部から譲ってもらったのだから特別な関係――と、次から次へと百人一首の有名人が出てきます。

 ちなみに小倉百人一首に取り上げられた紫式部の歌が何だった忘れてしまった人のために、(私も忘れてしまったので)改めて調べてここに記します。
「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半(よは)の月かな」

吉高由里子の魅力をどう表現するか】

 今回紫式部を演じる吉高由里子さんには、とても不思議な印象を持っています。基本的に健康で素直で無邪気な女性ですが、私はこういう人には魅かれないのです。
 こういうタイプの人からは必要とされる感じがまるでしませんし、おそらく近くには、いつでも助けてくれるすばらしい男性たちがいくらでもいるからです。私でなくてはできないといった優越感だとか、有能感、自己効力感がまるで刺激されません。
 こちらがそんな調子ですから、向こうから近づいて来ることももちろんありませんでした。
 しかしそれでいて吉高さんが好きではないのか、嫌いなのかと言われると、それもまた違います。私は彼女の出ていた映画やドラマをけっこうたくさん観ているのです。
 「ガリレオ」「連続テレビ小説 花子とアン」「東京タラレバ娘」「最愛」「蛇にピアス」「カイジ 人生逆転ゲーム」「GANTZ」「探偵はBARにいる」「僕等がいた(前後編)」「真夏の方程式」「検察側の罪人」・・・
 
 特に好きな顔立ちでもない、しゃべり口調は幼すぎる。演技が飛び抜けてすごいわけではないし、特に蠱惑的でもない。そんな吉高由里子のどこに魅力があるのか――と、つい最近、これに答えるひとつの文章を見つけました。現代ビジネスの2024年1月28日付「大河ドラマ『光る君へ』で期待する俳優」ランキング!の中にあった次の表現です。
 ヘラヘラとした軽い喋り口調の中に、複雑な心情を滲ませるのが彼女の演技の魅力。芝居のトーンはコミカルだが、端々に知性と色気が漂っているため、目が離せない。
 書いたのは成馬零一というライターですが、私はこの表現に酔ったような気分になりました。