身分が違うから道長と式部は恋人同士になれない?
時期が違うから清少納言と式部は知り合えない?
いや、いやそんなことはないだろう。
いつの時代も、若者の行動に節度など設けられないのだから、
という話。(写真:フォトAC)
【配偶者を手に入れられなかったゴリラはどこへ行くのか】
40歳を過ぎてから、若いうちにあれをやっておけば、これをやっておけばと思うことが多くなりました。そのひとつは中高生の時代に脇目もふらず勉強して、京都大学の霊長類研究所にはいる、ということです。
私は東大・京大、あるいは全国の医学部・医大は、国公立私立を問わず努力で入れるものではないことを痛いほど知っていますから、それは中年男の戯言のようなものですが、二周目の人生をうまくやりおうせるなら、霊長類研究所でボスになれなかったゴリラの研究をしてみたいのです。
一番強いオスがメスを独占してその強い遺伝子を残す――同じ仕組みを持っている生き物にはゴリラ以外にライオンや狼、ブチハイエナなどがいると言われていますが、私が興味あるのは、ボスの方ではなく、はじき出された大多数のオスの生き方なのです。身につまされるので――。
【同一グループ内で一夫多妻が始まったら、余るオスが出て来る】
「光る君へ」の話をしている最中にゴリラのことを思い出したのは、平安貴族のヒエラルヒーの頂点にいる一位~三位の高級貴族、その数わずか20人程度の男性だったとして、それぞれが3~4人の妻(正妻と妾)持つとすると、同じ位階では女性が足りなくなってしまうのではないか、といういらぬ心配を始めてしまったからなのです。
人間ですから男女ほぼ同数のまま大人になります。それがいよいよ夫婦関係を結ぶというとき、1匹のオスが複数のメスを独占してしまうと、オスに余りが出てしまう、彼らはどうするのかな、とわが身に重ねて心配になってしまったのです。
――もちろんその心配は大したものではありません。「同じ位階では」という条件付きですから、例えば家長が二位の家の息子が同じ二位の家の娘と一緒になれないなら、三位・四位と幅を広げて探せばいいのです。
貴族の間では政略結婚が基本の時代ですから、「逆玉」(身分の低い男が身分の高い家の娘を娶る)もあれば、低い身分の家の娘と一緒になる例もいくらであるはずです。
例えば百人一首で有名な「藤原道綱の母」(「光る君へ」では財前直見さんが演じた。以下、名前のあとのカッコ内は同じ)は摂政:藤原兼家(段田安則)の妾でしたが、彼女の父親は正四位下(しょう よんみの げ)、伊勢守でもあった人です。正四位下ということで紫式部(吉高由里子)の父親(岸谷五朗)の正五位下よりは上ですが、同じ受領(四つある国司の位の最上位)という意味では越前守であった式部の父も遜色ありません。
「藤原道綱の母」が闘志を燃やした兼家の正妻の時姫(三石琴乃)も、父親は従四位上、摂津守でした。
兼家が摂政になるはるか前の話で、最初からエリートの道長(柄本佑)とは違うかもしれませんが、藤原北家九条流の正当な跡取りが受領の娘を娶ったという意味からすると、兼家の四男坊で跡取りになる心配のない道長が、町辻で風刺劇を披露する散楽の一員、直秀(毎熊克哉)を介して紫式部と知り合い、恋愛関係に陥ったとしても、これまた全く問題がないように思うのです。
「身分が違うから」といった程度の理由で、若い男の子たちの衝動をコントロールすることなど、できはしないのです。
【清少納言と紫式部が知り合いだった可能性】
「清少納言(ファーストサマー・ウイカ)と紫式部も実際には会ったことはない」――それが定説のようです。
道長と式部の場合は身分差がふたりを遠ざけたと考えますが、少納言と式部の場合は「時期が異なる」が理由になるようです。
清少納言は966年ごろの生まれ、没年は1025年あたりと言われています。その間の993年ごろから1000年までが中宮定子(高畑充希)のところに出仕していた時期になります。定子が3人目の子どもを産んで亡くなったのを機に、宮中をあとにします。
紫式部は970年から978年の間のころに生まれ、1014年から1031年の間に亡くなったとされています。宮中に上がったのが1006年頃、下がったのが1012年頃。
したがって少納言は式部より4歳から12歳くらいの年上、少納言が宮中から下がって6年も経ってから式部が宮中に上がりますから、会う可能性はまったくなかったのです――か?
私は高校で少納言や式部のことを勉強した際、ふたりが仕えた中宮定子、中宮彰子はともに一条天皇の后であったため、少納言・式部の間にも自然と緊張関係が生れ、紫式部は日記にも厳しい清少納言評を書かざるを得なかった、みたいな話を学びました。
しかし中宮定子は 976年生まれ、中宮彰子は 988年生まれですから、彰子が12歳(満年齢では11歳)で入内したときに定子はすでに23歳にもなっています。――というか彰子の方が幼すぎてライバルになりようがありません。これではどうやったって夫の奪い合いにはならないでしょう。
しかも彰子が入内したのが999年の2月で、翌1000年の暮れに定子は亡くなっていますから、ライバルというよりは姉妹みたいなもの。定子の忘れ形見の皇子は彰子のもとで育てられることになりますから、関係はむしろよかったくらいなのかもしれません(「光る君へ」では二人が交わる部分はまったくありませんでしたが――)。
では紫式部はなぜ、清少納言のことをあんな風に書いたのでしょう?
【知っていたからこそ悪口が言える】
「それにしても清少納言という人は、偉ぶってとんでもない人でした。さも頭が良いかのように利巧ぶって漢字を書きまくっていましたが、よく見ればまだまだ足りない点ばかりです。
こんなふうに、人と違っていたいと思い、人と異なることを好む人は、やがて必ず見劣りし、行く末はただ「変」というだけになってしまうものです。
例えばこんなふうに「艶」を気取る人は、人と違っていようとするあまり、どうでもいいよういなところに感動し、もののあわれを見逃さず拾い集めようとするので、自然と現実感のない奇妙なものになってしまいます。そんな人の成れの果てが、どうして良いものでありましょう」
「紫式部日記」は道長の要請で宮中に上がった式部が、1008年秋から1010年正月までの宮中の様子を書いた日記と、当時の手紙からなるものです。本来の日記の中に手紙が紛れ込んだのではないかという説もあるのだそうです。
清少納言に関する上記の部分は「手紙」に書かれたものです。誰に当てて書いたものか、どういう経緯で書かれたものか、「日記」を見ればそこに書いてあるのかないのか、現物が手元にないのでそれすらも分かりませんが、少納言が宮中を去って10年、何かと比較されることは多かったと思うのですが、実際に会ったことのない人物をここまで悪しざまに言うには、何か理由があったのでしょう、いったい何があったのか――と、ここまで書いて、思うのです。
「本当に、会ったことがないのか?」
昨日も書きましたが、人口十数万人の平安京の中の、わずか3,000名の貴族村。そんな中で有能な二人が、互いを知らぬまま10年も20年も過ごしていけるものか、という思いが私にはあります。もちろん、だから紫式部と清少納言は若いころは友だちだった、だからあんなふうに悪く書けるのだと主張するつもりはありません。
ありとあらゆる可能性を検討して、少しで可能性があればそれを広げて王朝の一大ロマンを構築する――やはり一流の脚本家は大したものだという話をしたかったのです。
(この稿、終了)