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「平安貴族の人数が分からない」~テレビドラマを見なおす③

 「光る君へ」の、若き日の藤原道長紫式部が恋仲で、
 清少納言と式部は互いに友情を感じているという設定――、
 それって、荒唐無稽な話なのか。
 とりあえず平安貴族の人数について調べてみた、
という話。(写真:フォトAC)

【科学の神髄は『誰がやっても答えは同じ』・・・じゃなかったのか?】

 子どものころの私は19世紀なみの理性主義者で、人間関係のことは理性がすべてを解決すると信じていましたし、生活上の具体的な問題については科学が必ず解決してくれると思い込んでいました。今、世界にうまく行っていないことがあるなら、それは理性が足りなかったり科学の進歩が追い付いていなかったりするだけで、いつか必ず、この地上は楽園になると思い込んでいたのです。
 理性主義の方はさすがにおとなになると保てなくなりましたが、科学に対する信奉は相当な齢になるまで、というかつい最近まで、頑強に根付いたままでした。私たちはいつか病気もエネルギーも環境もすべてを解決すると信じていたのです。
 
 その信念が揺らいだ初めはエイズ騒動でした。地上から伝染病をなくすどころか、やってもやっても病気は次々と増えていく(らしい)と分かったからです。2019年に始まるパンデミックは病原菌やウイルスに対する人類の立場を、決定的に思い知らせるものでした。
 続いて科学に疑念を持つようになったのは2011年の東日本大震災の際の福島原発事故です。この時に漏れ出した放射能について、科学者の意見がまったく一致しなかったのです。
 ある学者はたとえ1マイクロシーベルトであろうと自然由来を上回る放射線を浴びるのは危険だと言い、別の学者は放射線の影響については閾値があり、福島で漏れ出した程度の放射能では何の影響もないと言い、また別の学者に言わせるとこの程度の放射能だとラドン温泉などの例に見るように、むしろ健康にいいくらいだと言ったりもします。その最後の説を信じたジャーナリストが「50年経ったら飯館村は健康長寿村だ」などと無体なことを叫んでマスコミから追放になったこと、私はよく覚えています。

【平安貴族の人数が分からない】

 さてひとくさり文句を言っておいて--、いま私が困っているのは、平安時代の貴族の、家族を含めた人数がどれほどかという問題に、答えが見つからないことです。
 これについて実は「家族を含めて3,000人」という数字に記憶があって、それをいつも使っていたのですが、今回、改めて確認したとろ、いろいろな説があってよくわからなくなってしまったのです。
 あるサイトは「100人」だと言っています。
当時の三位以上の高級官僚はわずか10~20人ほどで、その下の四位、五位の中級官僚は約150~200人、この二つのグループの家族を合わせると1000人ほどが平安京に住んでいました。*1
 ChatGPTが紹介してくれたブロブ記事では、GoogleのAIが答えた結果として
平安時代の貴族は、150~200人ほどで、人口の0.003%未満でした。家族を含めると700~800人ほど*2
といった数字を出してきます。
「京都・宇治 式部」という商店のサイトにも、
平安時代の貴族は150人から200人ていどだったようです。人口の0.003パーセント以下という、まさにほんの一握
という記述がありますから、もとは一緒なのでしょう。*3
 Japaaanというサイトには、
この平安貴族は何人いたのかというと、家族を入れて1000人ほどだったと見られています。ちなみに、当時の平安京の人口は1200人くらいでした
という記述があります。*4
 貴族が1,000人で平安京の人口が1,200人なら、200人が1,000人を支えるという変な構造になっているわけで、まったく理解できません。1,200人ではなく1,200万人である可能性も考えましたが、今度は多すぎます。
 中には
貴族社会の構成は上級貴族は30人、中級貴族は1000人、下級貴族は4000人ぐらいだと思われ、貴族と呼ばれる人々はせいぜい5000人ぐらいでしょうか。この中には彼らの扶養家族は含まれていませんから複数の妻や子供をプラスして、2万人から2万5000人ぐらいが貴族階級だったと思われます
という記述もあったりします。*5

【どこまでが貴族かで、数え方が変わってしまう】

 これは二官八省と呼ばれる律令制の官制の中で、どのレベルまでを「貴族」と呼ぶのかという問題が関連しています。右は日経BOOKPLUSの記事から図版を写させていただいたものですが、政府の仕事をする侍・無位までも「貴族」と考えると、「戦国ヒストリー」の「貴族と呼ばれる人々はせいぜい5000人ぐらいでしょうか」は説得力ある数字となります。

 しかし「光る君へ」を見ている人は分かると思うのですが、紫式部の父親の藤原為時は式部丞・六位蔵人であった(だから紫式部は「式部」と呼ばれる)のを、正五位下に昇格された上で越前の国司となっているのです。
 国司になって多少は豊かになったとはいえ、それ以前の生活が「貴族」の名にふさわしいかというとかなり難しくなります。使用人2名といっても見栄を張っている様子が伺えますし、清少納言の「枕草子」にも任官発表(除目)の日に、元主人が今回も国司になれず、再雇用の可能性もなくなってとぼとぼと田舎へ帰るかつての使用人の姿が描かれています。国司と言っても旨味のあるのは四等官の最高位である「守(かみ:一般には「受領」)」だけ。そのポストは60余りですから800人余りの中級官僚(四位~五位)に対する倍率は800/60。かなりの高倍率であって、受領になれない者は使用人2名の貧乏貴族に甘んじなくてはなりません。

 前出の「戦国ヒストリー」には「平安貴族の給与格差 紫式部の父(地下官人)と、藤原道長の父(公卿)の給料を徹底比較!」というページがあって、そこで為時の、国司になる前の収入となって以降の収入の差が示されています。それによると、国司就任後の年収は5,570万円ほど(平均月収464万円)。それに対して国司就任前と退任後は年収わずか66万720円(月収5万5千円)です。当然アルバイトをすることになります。
 正五位下藤原為時ですらこの始末ですから六位以下の者の貧困やいかに、という話になります。しかも官位は正八位下まであって、政府では無位の者まで働いていますから、こうした人たちまで(たとえあたまに「下級」とつけるにしても)「貴族」と呼ぶのは難しいことです。
 ちなみに「侍」というのは「武士」と誤解されますが官公庁に「侍(さぶら)う」文官のことです。「無位」はさらにその下働きですから、普通以下の給与で雇われていることになります。
 
 やはり貴族と呼んでいいのは五位以上。「高級貴族」と呼んでいいのは一位~三位の20人ほど、四位が「中級貴族」、五位を「下級貴族」と呼ぶのが適切のようです。それでも四位五位の人数は「150~200人」から「800人」「1000人」と幅がありすぎます。
 私としては「上級貴族が約20人、その家族を含めると150人~200人」、四位五位の中下級貴族が1,000人、家族を含めると4000人というあたりに落ち着いてくれるとすっきりします。四位五位の諸大夫が図のように800人だったとすると、私の記憶にあった3,000人は俄然、輝きを増してきます。
 3,000人でいったん落ち着かせましょう。

【若き日の藤原道長清少納言紫式部は本当に出会うことはなかったのか】

 私は何にこだわっているのか――。
 実はドラマにあったような若いころの藤原道長紫式部の恋、清少納言と式部の友情は可能性がなかったのかという問題にこだわっているのです。メディアに登場する専門家たちはほぼ一様に「身分の差の大きさから道長=式部の恋愛はない」「宮中に出仕していた時期のずれから、納言=式部の友情もない」といっていますが、人口十数万人の平安京の中のわずか3,000名の貴族村です。そんな中で「清原の家の出で、一時期少納言のところに嫁いでいた女が才長けているらしい」とか「式部丞だった藤原為時の娘が和漢の書にめっぽう詳しく、歌も詠むらしい」といった噂が立たないわけがないと思うのです。噂になれば二人を合わせてみようという人は必ず出てきます。
「朝廷」「朝務」という言葉があるように、平安貴族の仕事は午前中に終わってしまい、午後は暇な人ばかりです。いい年をした大人でも、おもしろそうなことにはすぐに飛びついていたはずです。
(この稿、続く)