ドラマって、
脚本家の頭の中にあるものを無機質なシナリオに変換し、
それを現場で改めて肉付けし、皮を被せて作り直すものだよね。
それって学校の授業の指導案に似てないかい?
という話。(写真:フォトAC)
【水晶の指導案】
一時間の授業を進めようという時、教師はどんな場合でも頭の中に一時間分の計画を描いて教室に向かいます。この計画を授業計画または指導計画と言います。
授業計画(また指導計画)をきちんと紙に書いたものを指導案といい、1枚にまとめてペロンと出す場合もあれば、電話帳のように厚い(といっても若い人にはもはや通じない比喩)冊子を作ることもあります。さすがに最近はなくなりましたが、昭和から平成にかけて、しばらくは厚さ自体を誇った時期もありました。
私はそうした分厚い指導案を作ることや読むことが大好きでした。ひとがやったものについていえば、研究全体がしっかりとしていて、資料に過不足なく、論理もきちんと通っていて読みやすい指導案に出会うと、何かウキウキしたものです。そうした指導案はたいてい「ああ、これなら誰がやっても上手く行く」と思わせるもので、目に浮かぶ授業の流れは透明で美しく、私はそれを「水晶の指導案」と呼んで、抱きしめたくなるような気持でいたものです。
ところが世の中はままならないもので、「水晶の指導案」に従っても計画通りに行かない授業というのが結構あったのです。指導案は「普通の子はここでこんなふうに考える」とか「資料を読んでいくと、この地点でこうした誤った方向に誘導されるのが一般的」といった、言わば「子どもの常識」を前提に組み立てるのですが、教師の情熱が伝わりすぎると、子どもたちが“常識”を越えて成長してしまい、教師の思惑を乗り越えてひとつ上のレベルで授業を始めることがあるからです。
ダイナミックで浮き立つようなすばらしい瞬間ですが、指導案から外れて行くわけですから授業者は気が気ではありません。その場での手腕が問われ、時にはコントロール出来なくなって授業が失敗に終わったかのように見えることもありました。
しかしそれがどんな形で終わろうと、「水晶の指導案」が出てしまった以上、私は授業後の研究会では、授業者を精一杯支えようとしました。今日うまく行かなかった点をごくわずかに修正するだけで、私でもすごい授業ができるに決まっているからです。
【三人の脚本家】
「水晶の指導案」について思い出したのは、最近テレビドラマをみながら、脚本とドラマの間にも、同じような関係があるのだと思い始めたからです。
「一に脚本、二に役者、三四がなくて五に演出」と言ったりしますが、良き台本があって優秀者な役者が集められれば、たいていのドラマは面白くなるものです。現在、私が観ている範囲で脚本が優れていると思うドラマは三本。その作品と脚本家を並べれば、
の三作品が出色です。
大石静さんは定評のある大ベテランで、朝ドラの「オードリー」や「ふたりっ子」、大河ドラマの「功名が辻」や連続ドラマ「セカンド・バージン」で名を成した恋愛ドラマの名手です。
生方美久さんはまだ31歳の気鋭ですが、前作「Silent」で優秀なプロデューサや演出家に支えられて、すでに揺るがしがたい個性的な台本が書けるようになっています。
吉田恵里香さんも36歳の若い脚本家ですが、テレビ東京の「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」やNHKの「恋せぬふたり」など、けっこう厄介な作品を世に問うています。今回の「虎に翼」でも、社会の片隅に追いやられる女性の問題だとか生理の問題。朝鮮人差別の問題から原子爆弾投下に対する責任追及、LGBTQの問題など、現代では問題であることが当たり前でも、当時にあっては決して口に出せなかった課題を次々と取りあげ、作品の中に入れ込んできます(少々、盛り過ぎの気もしますが・・・)。
【登場人物の全員に人生がある】
この人たちの作品に共通するのは、登場する人物のひとりひとりが人生を背負い、それぞれの論理や感情をもって真剣に生きているということです。
一条天皇には一条天皇の、藤原道長には藤原道長の、そして紫式部には紫式部の感じ方と理屈とこだわりがあり、そのすべてに価値があるのに微妙にすれ違い、交錯し、傷をつくったり修復したりするのです。
「海のはじまり」には池松壮亮という優秀な若手俳優が、亡くなった主人公の元同僚という役で出ています。最初、「この役、池松ほどの役者でなくてもできただろう」と思ったのですが、のちに考え直すことになります。世の中にはドラマにならないような人生を送っている人は、ひとりもいないのです。実際にドラマで拾い上げるかどうかは別にしても、取り上げてうまくハマれば作品に厚みが出て来ることになります。「海の~」の池松の役はなくてもいい、しかし死んだ主人公の周辺にはたくさんのドラマがあって、その中で人は生きていたのだといった豊かさは、観る者の心を熱くします。
「虎に翼」の寅子(ともこ)の周囲の人々も、姿が見えないあいだも確実に生きていて、それぞれの成長を果たしている様子が何となく匂ってきます。今はしばらく様子が見えないが、きっとどこかで着実に生きているだろうと思わせる存在感があるのです。
ではそういったドラマの元になる脚本は、どんなふうに書かれているのでしょう。
【呆れるほどつまらなかったシナリオ本】
私は、最近で言えばこの春に評判になった宮藤官九郎の「不適切にもほどがある」のシナリオ本を読みました。もちろん最近のものとしては飛び抜けて面白いドラマで、記録に残しておきたいセリフもあったからです。ところがこれが驚くほどつまらない。
ほんとにあのドラマの脚本がこれだったのかと、改めて撮り溜めてあったVTRと対照しながら読み直したのですが、おそらく現場の事情(指定された昭和の番組のVTRがないなど)によって変更された箇所はあるものの、9割以上はその通りのセリフ、そのままの状況なのです。それなのにどうしてシナリオは面白くないのか――。
やがてその理由がわかります。言葉が横溢するシェークスピアの戯曲や、ト書きがたたら丁寧だった昔の脚本と違って、ほとんどセリフだけで構成された現代のシナリオは、私のような素人の頭に映像を立ち上げるだけの力がないのです。ただ言葉が並んでいる感じで、笑うべきダジャレも淡々とやり過ごしてしまいます。
おそらく私が頭に映像を浮かべられるほど細かに指定されたシナリオは、それを演じる役者やまとめる演出家たちの創造力を阻害するからなのでしょう。役者や演出家を脚本の下僕にしてしまったら、脚本家の能力以上の仕事はできないのです。
【集合知としてのドラマづくり】
現代の脚本家は、おそらく頭の中に具体的で豊かなありありと映像を浮かべながらシナリオを書き、しかし脳裏を駆け巡った自分自身の映像は隠して、言葉だけにして現場に渡すのです。それはあたかも作品の皮を剥いで肉を削ぎ落し、骨格だけを渡すようなもので、受け取った俳優や演出家たちは改めて骨格に肉をつけ、皮を被せ、脚本家の頭の中にある以上の映像を集合知として作って行く、だから制作者も視聴者も面白いのです。
「海のはじまり」は物静かな主人公たちが「え?」とか「うん?」とか「ああ」とか、文字を見ただけでは何とも理解しがたいやり取りをたびたび行ってドラマを進めていきます。互いに良く知った家族、恋人って、それで済みますよね。また私たちは、特に大人たちはしばしば素直さを失って気持ちとは裏腹な言葉を口にしたりしますから、普段の会話の言葉の部分だけは、とても分かりにくくつまらないのです。その曖昧な部分は、顔の表情や声の様子、わずかな目の動きや口元の仕草で補っていきます。
有村架純はやっぱりすばらしく古川琴音もすごい。目黒連も頑張っているし大竹しのぶはオバケですから怪演言うまでもありません。子役の泉谷星奈ちゃんだけが思ったことを的確に口にします。それも私たちの暮らしの中ではありがちなことで、それらすべては現場で演出家や役者たちが、新たに肉付けした作品の別の姿なのです。
たぶんよく仕上がった授業も同じです。
(この稿、続く)