母を施設に入れた。
選択の余地はなかったが、姥捨ての気分は残った。
余裕が生まれたので百姓仕事の学び直しをして、
自らの人生の聖地巡礼に出た。我が青春を問うために
という話。
(写真:フォトAC)
【介護の10年が終わる】
偶然ですが10年ごとに人生を切り替えてきました。
20代は学生アルバイトも入れて家庭教師と塾講師で、30歳で中学校教師になって40歳で小学校に異動しました。50歳代を管理職で過ごし、60代は――今のような定年延長も再任用もなく、講師として学校に残る道もありましたが「若い志望者の道を塞いではならない」と言われて席を譲りました。その譲った(講師の)席がわずか1~2年で埋まらなくなるなど、夢にも思わない時期でした。
ついでに言えばこのころネットで教職の愚痴を漏らすと、返ってくる応えはいつも決まっていました。
「そんなに嫌なら辞めろ。代わりはいくらでもいるぞ」
今から考えるといい時代でした。
定年退職後、母親の介護をしながら短い期間でしたが児童館に勤め、3年で辞めてあとは90歳代の母の在宅介護と百姓仕事、そして読んだり書いたり――。ところが今年1月末に母が骨折し、4カ月に渡って2つの病院でリハビリを続けましたが、生活のレベルが大きく落ちてしまい、母の家に通っての在宅介護は諦めざるを得なくなりました。息子が母親のシモの世話、というのもやはりお互い抵抗があり、この辺りが限度かなという思いで施設のことを考えたのです。母はだいぶ前から行ってもいいと言っていたのを、私が引き留めていたのです。だから有料老人ホームが決まると、すんなりと入って行きました。以後は順調です。
耳は遠くなりましたが、毎日さまざまな人と会話をする生活で、意識はむしろしっかりしてきました。家にいたころは会うとたっぷり水分を含んだ紙オムツが膝近くまで垂れ下がっていることがあり、臭気があたりに広がっていたりすることも多かったのですが、今はそういうこともありません。
在宅のころのケア・マネージャーの話だと、
「施設で見てもらっていたにしても、お年寄りは転ぶときは転びますよ」
ということですが、1月に母が骨折したときは、たまたま私が飲み会のために泊まりに行けなかった夜で、おかげで母は畳の上で一晩、ベッドから引きずり下ろした掛け布団を掛けただけで朝まで過ごしたのです。1月の最も寒い時期のことで、可愛そうなことをしました。
私が泊まらない夜なんて1年365日中5日もないというのに、事故が起こるときはそんなものです。施設なら骨折することはあっても朝まで放置ということもないでしょう、ナースコールもありますし。
――ということですべてよし、なにも問題はないのですが、それでもやはり「母を棄てて来た感」はあります。そうした感情は予想されたことですが、在宅のままでいいことはほとんどなかったろうことも事実です。
【畑の学びなおし】
母を施設に入れてから私の生活も大きく変わりました。何しろ1日3回の訪問と宿泊。寝ている時間も入れると母の家に12時間、自分の家に9時間、運転している時間が3往復合わせて3時間といった生活を送っていたのが、自宅に24時間いるようになったわけですから。
特に違ったのが畑にいる時間の長さ。しかも大した広さの畑でもないのですぐに作業が終わってしまい、必然的に考えたり調べたり、といったことが多くなります。図らずも農業の勉強ができたわけです。
おかげで今年はピーマンもナスも大豊作。毎日のようにトマト棚から実をもいで食べるとか、同じブロッコリの苗から何回も収穫して――などといったことは35年も畑仕事をして来たのに初めてのことでした。
今年の私が凄いというより、これまでの私がどれだけ酷いか、という話です。
【友だちに戻るためのいくつかの条件】
今年、大きく変わったことのひとつは、人と会うことが多くなった点です。これにはいくつかの要素があって、
- コロナ禍明けの雰囲気が十分広がって、人と会いやすくなった。それと同時に、これまでの閉じこもりストレスを、一気に解放しようという機運も共有しやすかった。
- 毎晩母のところに行く必要がなくなって、夜、出歩きやすくなった。
- 年金生活者なので、とりあえずヒマ。
- 古い仲間であっても、働き盛りの時期には互いに相当の格差があった。40歳前後で会社経営をしている人もいれば、不遇の人もいる。金持ちもいれば貧乏人もいる――そういった状況ではなかなか人は集められない。定年から10年。半数は年金生活者で、あとの半分も暇つぶし程度の仕事しかしておらず、社会の底辺で平等に戻った。
- そろそろ物故者も出てきかねない年齢。いまのうちに会っておかなければ2度と会えないかもしれないという恐怖。
- 同じ事情から、①青春に答え合わせをしておきたいことがある。②過去にはっきりさせておきたい問題がある。③墓場へ持っていってはいけない秘密や謝罪しておくべきことがある等々。
そうした思いは多くの同年齢に共通みたいで、私から声をかける場合もあれば誰かが発起人となって呼んでくれることもあって、
3月には初任校で仲の良かった先生たち3人と40年ぶりの飲み会。
4月はコロナ禍で中断していた大学の同窓ゼミ会が、リモートを除けば4年ぶり2回目。今回が初参加で45年ぶりという仲間もいた。
5月はサラリーマン時代の仲良し4人組で40年ぶり。一人は四国からのリモート参加。
6月は高校時代からのいつもの仲間で1年遅れの「古希の会」。夫婦同伴も多く総勢16人。「たぶんこんなに揃うことはこの先ない、白寿の会までは」と、そんな話もした。
【自らの人生の聖地巡礼】
そのうちの何人かとは、その後も直接顔を合わせたりリモートだったりしながら、会合を重ねています。もちろんもう将来の話なんかしませんし(将来がないから)、子どもの話も孫の話もしません。病気の話はかなり盛り上がる現在進行形の話題ですが、基本は自分の身の回りの話と過去の掘り返し。それを若かった数十年前の雰囲気で話すわけです。
あの場所であいつらと話し、この場所でこいつたちとこんなふうに話した――それはまるっきり自分の人生の聖地巡礼のようなものです。
(この稿、続く)