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「近頃の文科省はどうかしているが、実は学校を生かすための深謀遠慮なのかもしれない」~国の政策をどのように変えさせるか、本気で考えてみた③

 教員の数は増やせない、過去に生み出してしまった仕事も減らせない、
 しかし無責任に国の教育を放置するわけにもいかない。
 どうしたらよいのか――。
 もしかしたら文科省は、そこまで考えて無茶苦茶をやっているのかもしれない。
 という話。(写真:フォトAC)

【近頃の文科省は何か変だ】

 ここのところの文科省のやり方を見ていると、本気で行きつくところまで行ってしまえと腹を括ったのかもしれないと思うことがあります。一昨日から話題にしている「時間外労働削減計画を出さんと曝すぞ」も「誰でも教員になれるようにするぞ」も、少し前の「休日の部活を25年までに地域に移行するぞ」もみな同じです。やることが乱暴で、あちこちで炎上の火種を振りまいているかのようです――と言うか、実際に騒ぎになるのが目的なのかもしれません。

「実名公表されても時間外労働上限規定に対応しない自治体が出て騒ぎになる」
「そこまで教員の質を下げてもよいのかという世論が沸騰する」
「結局2025年を過ぎても休日の部活の外部移行は半分もできず、大きな問題になる」
――どれもこれも本当に起こりそうなことばかりです。

 そう言えば「#教師のバトンプロジェクト」も同じで、一般には、
「教員が若年層に仕事の魅力を伝えることで、教員志望者の増加を目的とするプロジェクトであったが、開始直後より教員による労働環境の実態の訴えが目立ち、炎上を引き起こした」(Wikipedeia )
ということになっていますが、
「本プロジェクトは(中略)学校現場で進行中の様々な改革事例やエピソードについて、現場の教師や保護者等がTwitter等のSNSで投稿いただくことにより(中略)教職を目指す学生・社会人の方々の準備に役立てていただく取組です」(「#教師のバトン」プロジェクトについて
などと訴えて、本気で「いい話」が集まってくると思うほど文科官僚もバカではないはずです。

 彼らの元には年がら年じゅう国民からの不満・要望・苦情・陳情が寄せられています。その対応や調査・研究の過程で、教師の間に非常に大きな不満や憤懣が渦巻いていることはとうぜん分かっていたはずです。
 そんな状況で教師たちがおいそれと教職の楽しさ面白さを語るはずがない、発言の場を与えれば鬱積した不満がダダ漏れに溢れ出るだろうということは、当然、予見できたはずです。それにもかかわらずやってしまった――。

文科省は教員を増やす努力を放棄している】

 教員の働き方改革は一面では金の問題です。教員志望の減ってしまった現在ではかなり厄介ですが、現職教員の給与を大幅にあげた上で小学校の専科教諭や中学校の副担任を大幅に増やせば、問題の半分以上は解決してしまいます。各校に常駐のカウンセラー、看護師、生徒指導担当者、苦情係を置くだけでまったく違ってくるはずです。
 しかし文科省はひとを増やすための努力を今はまったくしていない、努力しようという意志をとっくの昔に捨ててしまったかのように見えます。どのくらい昔かというと、確実に言えるのは35人の学級編成が決まった平成2年あたりからです。

 これは1学級の最大人数を35人までとし、それ以上になった場合は学級を増やす、そのために必要な教員について予算措置を行うというもので、すでに実施されていた小学校1年生を除いて、令和3年から令和7年まで、5年をかけて小学校の全学年に行おうというものです。
 もちろん悪いことではありませんが、それが決まった時点で少なくとも令和7年まで(おそらくその先10年くらいを見越しても)、教員増のための予算措置を、財務省は1円も認めないということで文科・財務両省の了解が取れているのです。
 昨日も国会で野党議員が“教員不足で学級担任に欠員が出ている状況をいかにするのか”と質問したのに対して、岸田総理は「現在、35人学級編成および教科担任制拡充のための増員等、教員を増やすための政策は実施中で・・・」と、学校の人手不足と教員の成り手不足をわざと混同したような答弁をしていましたが、学校の教師を増やすという選択肢は、現在、政府のどこにもないのです。文科省を逆さにして振っても、予算どころか鼻血一滴すら出て来ません。

【教員の仕事を減らす気もない】

 では仕事の方を減らせるのか――。
 これも無理でしょう。新しい教育政策の多くは政治家たちの政治的遺産、いわゆるレガシーなのです。例えば安倍晋三元総理のもとに置かれた「教育再生会議」「教育再生実行会議」で提案・実施されたものだけを見ても、ゆとり教育の見直し、全国学力学習状況調査、教員免許更新制、第三者評価、副校長・主幹教諭の配置、小学校における専科教諭の配置、食育、英語教育の拡充、道徳教育の拡充、社会人教諭の偏重と学卒の軽視と、とんでもない数となっています。
 しかも安倍内閣ゆとり教育を見直したにもかかわらず学校5日制を旧に復したり総合的な学習の時間をなくしたわけではありません。それも先人の政治的遺産(レガシー)だったからです。遺産をなくすことは政治家にとっても難しいのです。
 さらに安倍晋三元首相が亡くなってしまった今、安倍氏の業績をなくすことはさらに難しくなっています(*)。
*たしかに「免許更新制」は廃止できました。しかし現在も残っていたとすれば現職教員が金と時間を使って更新しなくてはならない教員免許を、新卒の場合はなくてもよいという妙なことになってしまいます。そこまで矛盾がはっきりしてようやく廃止できるわけです)
 
 文科省が正規の道筋にこだわっている限り、教員を増やすことも仕事を減らすこともできません。今のままでは仕事を減らすどころか増やし続けるしかないのです。しかし文科行政を預かるものとして、あとは野となれ山となれと言うわけにもいきません。ではどうしたらよいのでしょう。
 こうした場合、政府が古くからよく使う方法で、内部に対しては禁じ手と思われている方法がひとつあります。外圧の利用です。国民の声を煽って政策に反映させるのです。

【「#教師のバトン」の深謀遠慮】

 「#教師のバトン」は文科省の意に反して教師の不満のはけ口になった、炎上したということになっていますが、どんなものでしょう。そうなることは目に見えていたのですから、あるいは炎上自体が狙いだったのかもしれません。
 実際「#教師のバトン」のおかげで教師の窮状は全国に知られることになり、驚きの目をもって見直されています。社会の学校を見る目がガラッと変わったのです。そこに「教員不足」がさらに輪を掛けます。
 もちろん教職の大変さが周知されることで志望者がさらに減るという弊害もあったかもしれませんが、すでに教員採用の現場はじり貧です。多少の影響はあったにしても、学校や教員がどんな状況になっているか、国民全体にして知ってもらう方がはるかに有益でした。
(この稿、続く)