カイト・カフェ

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「根性の曲がった教師や役人はこう考える」~国の政策をどのように変えさせるか、本気で考えてみた②

 文科省自治体教委も学校も、無理難題を跳ね返す力を失ってしまった。
 いくところまで行って、そこで状況を見て考えるしかないと思っている。
 だってそうでしょ?
 学校なんて信用ならない、学校で子どもは殺されてしまうと、
 みんな思っていたもの。
 という話。(写真:フォトAC)

【私を含む、根性の曲がった人々はこう考える】

 私は平和主義者ですから滅多に人と対立することがありません。相当に厄介な校長や教頭の下で働いても一向に逆らうふうがなかったので、同僚からは校長派あるいは教頭派とみられることもありましたが、逆らうのが面倒なのでそうしていただけで本音は「どうでもよかった」のです。
 ただし言われたことに素直に従うだけではなく、しばしば過剰に行ったり余計なことまで付け加えたりするので上司の指示が戯画化され、それがどれほどアホなことかはっきり見えてくることもありました。あとで気がつかれて「いやいや、そこまでは――」と止められることもありましたが、一度動き出したものはやめようがありません、行くところまで行ってしまおう。
 私にはそういう意地の悪いところがあります。巻き添えを食らった人には申し訳ないのですが――。

 さて、昨日お話しした、
「仕事は減らさない人は増やさない、その前提で時間外労働を半分以下に減らせ、できなければさらし者にするぞ」
「教師の成り手がいないそうだから教員免許の取得条件を緩和する、誰でも教師になれるようにする、それが悪いか?」
の件。文科省のいまの施策は「アホなことだらけ」のように見えますが、もしかしたら官僚の中にも私と同じタイプの性格のねじ曲がった人がいて、同じことをやっているのかもしれません。
 
 昔の官僚は自らの信念に従い、時には政治家さえ欺いて己の信じるところを実現しようとしました。それを官僚政治と言います。しかし今は違います。現在は政治家の言うことを素直に聞き、時には忖度も働かせ、その意思を実現しようと尽くす誠実な官僚の在り方です。内閣に人事を握られ、屈服せざるを得なかったのです。
 政治家の意思は国民の意思ですから官僚が従うのは当たり前ですが、一方、国民や政治家が間違ったときはそれを諫めるのも官僚の仕事です。しかし私のような人間がいれば、流れに掉さすことはあっても止めたりはしません。

【誰も教師なんか信じていなかった】

「政治家の皆さま、国民の皆さま。問題解決能力に優れた子をつくれ、知識より考える力をつけてくれ、いや知識も大切だ、せめてドイツ人・フランス人程度には英語のしゃべれる国民を育ててくれ、これからの時代はコンピュータだ、道徳教育はどうなっている・・・と、皆さんの要望を全部入れたら日本の教育はこんなふうになってしまいました。どうしましょう」

「教育界の最大の問題、教員の質の低下(学力低下体罰・わいせつ・指導力不足)が政界やマスコミをにぎわせ始めた2000年(H12)、教員採用試験の倍率は総計(小・中・高などすべて)で13・3倍もありました。倍率がそれだけあれば放っておいても優秀な人材を確保できたのに、これだけ人気があるのだから今のうちに叩いてさらに教師の質を上げようと妙なことを思いついた人たちがいます。
 それはまさに市場経済が良くなっていくとき、放っておいても税収は増えるのにわざわざ増税を言い出して全部をおジャンにしてしまう、そんなどこぞのアホな政治家と同じです。 
 
 しかしとにかく勢いで、2006年(H18)に教員評価を始め翌年には教員免許更新制を始める。するとその年の倍率は7・3倍に下がり、もちろん7・3倍でも御の字なのに、締めて、締めて、締め上げて、やがてずるずると倍率は下がり、令和4年度にはたったの3・7倍になってしまいました。小学校なんて2・5倍しかありません。一部では定員割れ。
 
 もっとも平成の昔は、(今でもそうかもしれませんが)子どもを学校に送り出せば体罰で殺されるかもしれない、いじめを放置されて自殺に追い込まれるかもしれない、女の子だったらわいせつ事件の餌食にされるかも知れないと、保護者が神経をすり減らし、最良の場合でも「うちの子、私立にやっていたらもっと伸ばしてもらえたんじゃないか」と疑念を持たれた時代です。マスコミも政府も学校を信じるなと大合唱をしていましたから、無理なからぬことだったとも言えますが。
 そこにはまた、子ども相手の楽な仕事で高給をもらい、長期休業をむさぼり楽しむ、そんな教師に対する誤解とやっかみもあったのかもしれません」

【そうは言っても何とかなるって・・・】

「もともと大変だった教職から自由が奪われ、仕事がさらにきつくなって、教員たちが『苦しい! なんとか状況を変えてくれ!』と叫んだとき、
『文句があるなら辞めればいいじゃないか。教師の代わりはいくらでもいるぞ』
 そうおっしゃったのは皆さまじゃないですか。代わりのいる時代ではなくなってしまいましたが、ブラック校則でうちの子の個性が殺されるなら教師なんかいなくてもいいと思っておられる方は今もたくさんおられるでしょ。教師がひとり残らずいなくなっても、それが何ほどのことですか。
 
 いやいや冗談です。ご心配には及びません。いざとなれば東京都の真似をして、教員免許がなくても2年以上の社会経験とやる気さえあれば、教員として採用できるようにすればいいのです。東京都はどうやら採用しても免許を取るまでは教壇に立たせない覚悟のようですが、全国的にはそんな余裕はありません。どんどん合格させてダメな人にはどんどん辞めてもらい、またどんどんどん入れる。それでなんとかなるでしょう。
 
 教育学部4年の勉強よりも、何をやっていたのか分からんようなものでも社会人経験2年の方が価値がある――文科省でもそう認めたと周知することが、将来なにかの役に立つとも思いませんが、この際しかたないでしょう」
 
(この稿、続く)