「独りぼっちでは死なせない」~日本人の死生観② 

 肉体は黄泉と現世をつなぐ手がかり、
 みんなで大切にすべきものだ。
 だから独りぼっちでは死なせない。
 人が最後に見る風景は、幸せなものでなくてはいけない。
という話。 

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(ウィリアム・アドルフ・ブグロー 「死の前の平等」:パブリックドメインQ)
 
 

【今ある身体を大切にする】

 日本人、そしておそらく東アジアの多くの人々にとって、肉体は「魂を乗せる船」ではありません。それは先祖から脈々と受け継がれた賜物であり、死んでから後は黄泉と繋がる手がかりです。したがって私たちには身体を傷つけることに強い抵抗感があり、若いうちはビアスだのタトゥーだの身体装飾に抵抗のなかった人も、いつかそれを疎ましく思うようになります。それが今でも普通です。

 もちろん片目を失った伊達政宗が己の不孝を恥じて生涯、隻眼の肖像画を許さなかったという逸話の先には、身体障害をよしとしない思想が待ち構えています。古事記でもイザナギイザナミの最初の子は3年経っても立つことのできなかったために、葦の船に乗せられ海に流されました。日本の神話の体系はやがてその子が兵庫の浜に漂着し、えびす神となって人々に福をもたらしたという形で決着をつけるのですが、パラリンピックの終わった今はなおのこと、身体を大切にすることと不慮の事故等で機能を失うことや障害をもって生まれることとの間には、折り合いをつけておく必要があるでしょう。
 それはたいして難しいことではありません。今あるものを大切にするだけのことです。

 

 

【独りぼっちでは死なせない】

 日本人にとって肉体は「船」でないばかりか、死んだ後に現世と繋がる重要な手がかりです。したがって生涯最後の瞬間をどう迎えるかはとても大切な問題です。
 現在進行形のコロナ禍においても、病院で死ぬことと自宅待機の中で家族に見守られながら死ぬこと、独りぼっちでアパートで死ぬことの間には大きな違いがあります。ですから自分についてはもちろんですが、他人はなおさら孤独に死なせてはならないと思うのです。

 死に際して、家族や社会が精いっぱいのことをして送り出してくれた――それが死者にとっても残された人間にとっても大切なのです。どんなに手を尽くしても悔いが残り、だからこそ葬儀の席では互いに「お悔やみ申し上げます」と言い合って悔いを共有するのがこの国のやり方です。
 それは毎日のように死に触れている医療従事者も同じで、だからこそ臨終の場では医師も看護師も深々と首を垂れ、大勢の患者が待っているにもかかわらず丁寧に湯灌を行い、遺体を整えるのです。
 そこには欧米のエンバーミングとは全く異なる思想と信仰があります。

 

 

【日本人にはできない】

 欧米と日本で、どちらが良いとか正しいとかいった話ではありません。またコロナ治療の最前線で実際に高齢者が優先されているのか、はたまた単なる順番の問題なのか、それも知りません。
 しかし重症病床を持つ病院の医師が、
「最後かもしれないけど受け入れるよ」
というとき、ひとの最後の瞬間を、最良の状況で迎えさせたいという思いがあることは間違いありません。
 どうせ死ぬのだから、より生き残る可能性が高い若い重症者を先に入院させるべきだ、そう考えるのも一つの正義です。しかし日本人にはなかなかできないことです。

(この稿、終了)