カイト・カフェ

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「身体は、その一部も傷つけてはいけない」~日本人の死生観①

 日本人には身体に関するある種のこだわりがある。
 特殊な場面では肉体は何よりも尊いのだ。
 たから家族を亡くすと、肉親は現場まで何としてもたどり着こうとする。
 骨の一片だけでも拾うために。

という話。

f:id:kite-cafe:20210906064421j:plain(写真:フォトAC)

【身体は、その一部も傷つけてはいけない】

「身体髪膚(しんたいぱっぷ)これを父母に受く あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」
(身体は髪から皮膚の一片まで、すべて父母から与えられたものであり、これを傷つけないようにするのは親孝行の始めである)

 儒教を構成する古書のひとつ「孝経」から出た言葉で、戦前の修身の教科書に引用されていたため、当時の教育を受けた人たちはみな、そらんじて言えるといいます。しかしこの言葉の意味するところは日本にもっと昔から定着していて、例えば伊達政宗は病気で片目を失ったにもかかわらず、不孝を恥じて肖像画には隻眼を許さなかったそうですし、ヤクザ・任侠の世界に入る者は身体に彫り物をして、父母・家族との絶縁を明らかにしたといわれます。

 いつから日本人が身体を傷つけない道徳を持つようになったかというと、少なくとも縄文時代土偶には刺青様の模様があり、弥生時代の日本を描いた「魏志倭人伝」でも「倭国の人間は顔や全身に刺青があった」とありますからそれ以前のことではありません。おおよそ想像できるのは古墳時代の後期からで、儒教の伝来とほぼ重なりますから「孝経」の影響もあったのかもしれません。また奈良時代になると「孝経」は「論語」と並べて重要視されますから、私たちの想像以上に世間一般にも広がっていたとも考えられます。

 それから千数百年を経て、江戸時代も下る文政期の役人、遠山金四郎の背中に刺青があったかどうかは議論になるところです。しかし30歳過ぎまで家督を継ぐあてもなく、無職・飼い殺しの状態だった「遊び人の金さん」のことですから、若気の至りでそのくらいのことはしてしまったのかも知れません。ただしあったとしても、図柄は「桜吹雪」といった豪華なものではなく、血しぶきを飛ばす女の生首といったおどろおどろしいものだったはずです。それが文政期の流行ですから。
 
 そんな具合に武士の中にも刺青をする人はいましたが、あくまでも例外で、町人の刺青に関してもたびたび禁令が出ていますから好ましいものとは思われていなかったのでしょう。
 もちろん禁令がたびたび出るということ自体、繰り返し流行していた証拠でもあります。
 
 

【肉体へのこだわり】

 肉体の軽視・無関心あるいは侮蔑が欧米の特徴なら、肉体への極端なこだわりは東アジアのひとつの特徴です。

 例えば海外で大きな事故があった場合、日本人家族のほとんどは現場に駆け付けることを第一の使命とします。魂はすぐに、遺体や遺骨も、回収できるものはいずれ帰ってくるのだからわざわざ駆けつけることもない、といった考え方はしません。それはお隣の韓国も同じで、古くは大韓航空機撃墜事件ときも近年のセウォル号事件の時も、多くの人々が現地に向かい、何かを持ち帰りかえりました。

 東日本大震災の被災地では、いまも定期的に海岸の砂がさらわれ、遺骨のひとかけらでもないかと探されています。昨年、間違った収集で問題となった戦没者遺骨収集事業は、コロナ禍で1年半にわたって海外派遣が中断したままですが、なんと昭和27年から70年近くも続いているのです。
 私たちはどうやら、事故であれば現場に行って何かを確認し、骨でもいい、髪でもいい、それがダメなら遺品の何かでもいい、本人のものと確認できる何かを持ち帰らないと気のすまない感性、あるいは呪縛があるのです。
 それは遺骨や遺髪が、私たちと故人とをつなげる手がかりだからです。
 
 

【私たちが死んでから行くところ】

 私たちは死んだらどうなるのか――確実にこれだと言えるものが私たち日本人にはありません。宗教の力が弱く、混在しているからです。

 通常、遺骨は墓に納められ、盆や正月のたびに参拝に出かけ、故人を家に戻したりまた見送ったりと、あたかもそのひとが墓を住処としているような扱いをしますが、かといって「亡くなった人は墓に住んでいると思うか」と訊かれるとたいていの人が困ってしまうはずです。あんな寂しいところに置き去りにしているつもりはないからです。

 かといって墓が天国や極楽へ続く門だと思っているかというと、それもピンときません。ただ、普段はまったく意識していませんが、亡くなった父祖はどこにいるかと改めて聞かれるとなんとなく近くにいる、いるような気がする、近くにいて見守っていてくれるらしい――それが多数派の感じ方のように思うのです。

 これについてまとまった著述を残したのは柳田国男です。
 彼は『先祖の話』の中で、日本人の感性として、
人は死しても霊は遠くへ行かず、故郷の山々から子孫を見守り、正月や盆には「家」に帰ってくる
と信じているのだと語ります。そして
「若い頃には半信半疑であっても、年をとると大抵は当てにするようになる」
ともいいます。
 
 

【話を戻します】

 さて、今日まで続く話は、コロナ専門のある訪問診療医が、在宅で重症化した患者を入院させることができず、
「かえって高齢で非常に予後が限られた方であれば、『最後かもしれないけど受け入れるよ』という現象が見られる」
とボヤいたのを、テレビが取り上げて、
 もう手の施しようのない高齢の患者を引き受けることで、病院は難しい治療から手を引くことができ、病床も増やすことができる。こうして若い重症者は十分な治療を受けられないまま、「助かるはずの命」が失われていく――。
と解説したことに、私が噛みついたところから始まっています。

 若い放送記者はもしかしたら日本人の死生観を理解していなかったのかもしれません。それほど人間としての経験が浅かったのかもしれない。
 この国では人が死ぬとどういう存在になるのか――そのことに少しでも知って感性を研ぎ澄ませることができたら、医師の言った「最後かもしれないけど受け入れるよ」の意味を曲解などできようはずがないのです。

(この稿、続く)