妻の母が亡くなりました。94歳の大往生ですがここ10年余りは認知症も進み、寝ている時間の方が圧倒的に長い生活でした。
私はこの義母がとても好きで、マスオさん状態で一緒に過ごした3年間に、さまざまな話を聞きました。その一つひとつは実に味わい深いものでした。
百姓家の娘ですが幼いころ母を亡くし、父子家庭の家事の担い手として、幼い弟の面倒もよく見たようです。働くことを厭わず、愚痴も少ない人でした。
ある意味、私にとって妻よりも尊敬できる人でしたが、その話をすると「ちょっと印象が違うかな?」と妻は言います。
考えてみると妻は三女でしかも当時としては晩婚な方だったので、私があったときは義母もけっこうな齢になっていたはず。妻の知っている生臭さはすっかり抜け、すでに枯れて老齢の域に入ろうとしていたのかもしれません。
人生経験をたっぷり積んで苦労を重ねた人が、そうした生々しい感情を洗い落として語る話には、独特な雰囲気と数々の蘊蓄がありました。
「人は病気や事故では死なない」
私が大きな病気をしたとき言われた言葉で、
「人は病気や事故では死なない、寿命で死ぬのだ」
という意味です。
どんなに重い病気や大きな事故でもその人に寿命が残っている限りは死なない。そのかわり寿命が来ればどんなにあがいても死ぬ、そこに死ぬ意味があるからだ――と、そんなふうにとらえました。
私が大病をしたのは長野オリンピックの年で、そこでは里谷多英、清水宏保といった母子家庭のアスリートが最初の金メダリストで全国を沸かせていました。それを見ながら、
「もし、私が死ぬとしたら、それは私がもっとも大切にしてきた二人の子どもにとって、私の死が意味あるものだからだ」
そう思ったのです。。
しかしどうやら寿命は来ていなかったらしく、私は生き残り、子どもたちはアスリートにならず、平凡な幸せをつかむに至っています。もちろんそれでよかったのです。
「ばあちゃん子は三文安い」
年寄りというのは自分が寒いものだから、すぐに孫に服を着せてしまう、それで弱い子が育てしまう、そういう意味です。
義母はそれを自戒の言葉としていたようで、孫(私の娘や息子)の養育については、私たちに意見したり、その意に沿わないことをしようとしたりすることはありませんでした。
そばにいて、いつも静かに見守ってくれている、そんな感じでした。ありがたいことです。
「畑が洗われれば、三年、肥やしはいらない」
洪水で畑が流されると作物は一瞬にして失われます。しかし上流から流されてきた、たっぷり腐葉土を含んだ豊かな土は、肥沃の土地を生み出します。
「今年は全滅だが、向こう三年は食っていけるぜ!」
農民のしたたかさと、常に前向きに考えられる強さを教えてくれた話です。
私は社会科教師として「江戸時代の農民の暮らし」とか「明治期の農民の生活」といった内容を教えるときは、心の隅にいつもそのことを置いておきました。
私たちの祖先は、単に“弱っちい”、ダメな人たちではなかったのです。
その半面、
「だけどソバはやっぱり辛かった」
と言います。
あれほど辛抱強く愚痴を言わない義母が、子ども時代のソバ作りだけは辛いこととして思い出すのです。ソバ作りと言っても製麺ではなく、その前の製粉のことです。
それを20年ほど前にかなり詳しく聞いたはずなのですが、イメージがまったくわかなかったこともあって細かな点は覚えていません。ただソバの実は米より圧倒的に細かく、その細かな粒の皮を剥いて粉に挽くのは容易なことではなかったらしいのです。
なぜその言葉を印象深く覚えているのかは分かりません。しかしあの人が辛かったというのだから、子どもには本当に辛く苦しい作業だったのだろうと、何となくそのことを思い遣りました。義母の少女時代はどんなふうだったのだろう。
聞くところによると死亡診断書に「死因:老衰」と書くのはまれだそうです(かつて科学的でないと批判された)。義母の場合も死因は「摂食障害」――最後はほとんど食事も摂れなくなって亡くなりました。
あれほどでっぷりとよく肥えていた義母も、最後は針金のように細くなって死んでいきました。ただしその手の指は、百姓家の娘らしく、太く、節くれだったままでした。