同調圧力だの自粛警察だの――、
しかしそれらは結局、程度の問題なのだ。
私たちは子どもの頃からお互いを見て、お互いを正すことになれている。
それを大人になった今も続けているにすぎないのだ。
という話。(写真:フォトAC)
【シーナは同調圧力に負けたのか】
年末年始の帰省を非常に楽しみにしていた娘のシーナが、新型コロナ感染第3波のために断念しました。
親や祖母にうつしてはいけない、東京のウイルスを田舎に持ち込んではいけない、といった公徳心からではありません。とてもではないが今の東京に里帰りできる雰囲気がない、許される気がしないというのです。
昨日残したのは、この事実をもって「シーナは同調圧力に屈した、負けた」という話になるのかという設問でした。
答えはそれほど難しいものではありません。
結局すべては“方向性”と“程度”の問題で、戦争遂行だの犯罪だの、あるいは「いじめ」といった悪い方向へ向けた有形無形の集団圧力とは戦わなくてはなりませんし、正しい方向への圧力であっても、コロナ自粛の最中の、他県ナンバーの車を傷つけたり、自粛要請に従わない飲食店への張り紙、マスクをしていない人の画像をSNSにアップするなど、行き過ぎは厳に慎まなくてはなりません。
もちろんだからと言って「人ごみでマスクもせず咳き込んでいる人」を温かく見守る必要もありませんし、マスクをなくして困っているといった話なら助けてあげてあげればいいし、訳もなくそうしているなら思い切り冷たい目で見てやればいいのです。
同調圧力という言葉に負のイメージを被せて、一括で扱ってしまうと社会の自浄能力や教育力さえ失ってしまいかねません。
今年の年末年始に限って、里帰りは自粛しようというのはどう考えても正しい見方です。だったらその流れに乗ることは、決して負けたことにも屈したことにもならないはずです。
【私が子どもの時代の人民裁判】
考えてみれば学校というところは、昔から同調圧力を借りて子どもを育てる場所でした。
保育園でヤンチャだった子どもが小学生になったとたんにしっかりし始めると、保護者の中には、先生の偉大さだ、学校の凄さだととても感心して下さる方が出て来ますが、特別の技があるわけではありません。
1年生になるにあたって、相当な覚悟をして入学してくる立派なお子さんがたくさんいるのです。教師はその力を借りて全体に枠を作るだけです。
今は人権意識も広く定着して先生たちもとても優秀になりましたからそんな乱暴なことはしませんが、私が子どものころの帰りの会はまるで人民裁判でした。私などはかなり良い子だったはずなのに、それでも週に2~3回は、
「T君は今日、〇〇をしていました。やめた方がいいと思います」
とか、
「今日、T君に〇〇されました。やめてほしいと思います」
とか言われて、そのたびに立って“お詫び”をさせられていました。毎週2~3回というからにはよほど懲りない性格をしていたのでしょうが、吊るし上げる方も実に熱心でした。
今の先生たちはそんな明け透けなことはしませんが、やっていることは基本的に同じです。常に正しい行い・善い行いを称揚し、悪い行いは陰で丁寧に潰すようにします。そうすることで学級内にモラルの枠を示すのです。
するとそれだけで、子ども同士がお互いを正す”相互批正“が自然に発動してくるのです。特に小学校の低学年ではその力は絶大です。
【相互批正と同調圧力――子どもの頃からずっとやってきたこと】
なぜそうなるのかというと、比較的自由で遊ぶことが主な活動だった保育園から、制約の多い小学校に入ってくると、どうしてもうまく順応できない子が出て来ます。その子たちは枠からはみ出しやすく、“良い子”から見ればひどく身勝手です。自分たちはきちんとやろうと努力しているのに、“悪い子”たちはまったく自覚なく、好き勝手に生きているように見えるのです。そこで正義の大鉈が振るわれるようになります。 “良い子”たちだって我慢しているわけですから、我慢できない子たちが許せないのは、ある意味で無理ないことです。
この構造はコロナ自粛をかたくなに守っている“ハンマーの下の人々”と、常に枠の外に出たがる“踊る人々”の関係にそっくりです。
別の言い方をすると、同調圧力だの自粛警察だのといったことは、私たちが小学校のころからずっと続けてきたことなのです。
(この稿、続く)