同じでありたい、同じであってほしいという願いは、
いずれの国・地域であても同じだ。
「同調圧力」などという言葉で、
みんなでこの国を良くして行こうという意志をくじいてはいけない。
多少の行き過ぎはそのつど修正していけばいいだけのことだ。
という話。
(写真:フォトAC)
【勇み足――自由と命とどっちが大事だ!】
批判の中心は韓国政府がコロナを理由に個人情報を吸い上げていることで、彼は深刻な自由の侵害、自由主義の危機だと考えているようなのです。
そしてさまざまな角度から激しく語ったあと、彼はついに叫びます。
「自由と命と、どっちが大事なんだ!」
(そりゃあ命ダロ)
もっとも青年の名誉のために付け加えると、彼の言っている「命」は自分の命もしくは自分の仲間の「命」のことであって、電車の乗客にまで差し出せと言っているわけではありません。自分の命を捨ててでも韓国国民の自由を守りたいという決意を語ったのですが、不用意に言葉にすると何かトンチンカンな感じになってしまいます。
一般論として韓国人は「命より自由が大切」とは言いそうになく、その点では日本人も同じでしょう。
しかし世の中には、本気で自由の方が大切と思っている人々も少なくありません。
【命よりも自由が大切な国―フランス】
芥川賞作家の辻仁成(ミポリンの元夫、と言っても若い人は分かんねェだろうなあ)は、今月号の月刊文芸春秋でロックダウン中のパリをこんなふうに報告しています。「知り合いのカフェやレストランはシャッターこそ半分下ろしているけど、窓の隙間から中を覗けば、近所の暇を持て余した連中が集って、暗がりでコーヒー片手に談笑している。行きつけのバーはさらに酷く、ドアには鍵がされ、窓ガラスは戸板で塞がれつつも、ノックすると、隙間から店員が覗き、ぼくだとわかると、扉を開けて、飲んでいくか、と笑顔を向けられる。カウンターには地元の常連が居並び、片手にジョッキ。完全に法律違反だけど、通報でもない限り、警察も一軒一軒チェックは出来ず、パリは水面下でこういう違反者が溢れかえって、むしろ三密は避けられず、感染が逆に拡大しているという悪循環にある」
フランスという国は二百数十年前、たいへんな数の市民を死なせたうえで、世界で最も早く国民の自由を獲得した国です。そうした誇りもあるのか、自由が何よりも大切で政府の言うことをなかなかききません。
この国の同調圧力はむしろ自由であることに向いていきます。どんなに感染が広がって死者が増えても、自ら自由を制限するが許されていないかのようです。
下は最近パリから戻って来た、日本に永住権を持つフランス人の報告ですが、「エマニュエル・マクロン大統領は、連日ように、まるで王様ように国民に話しかけます」といった調子で、政府に対して非常に好戦的です。
toyokeizai.net 今やフランスはひどい官僚主義と中央集権、そして国民の政府への信頼性の欠如により、恐怖に基づいたシステムができてしまいました。国民を守る代わりに、国民を脅し、「規則」を守らなければ罰を与えられる。何とも気が滅入ってしまう話です。
とんでもなく激しい調子で責めますが、ここには人口が日本の半分ほどの国で62000人以上もの人々(日本は3100人ほど)をコロナで死なせてしまったことへの悔恨とか恨みとかはほとんどありません。あるのは自由を奪われたことに対する激しい憤りです。自由の国フランスで、人々はそのように躾けられてくるのでしょう。
【それぞれの国の同調圧力】
アメリカ人にはおそらく、強くなくてはいけない、勝たなくてはいけない、陽気でなくてはいけないという同調圧力があります。しかし24時間つねに競争に曝され、しかも陽気でなくてはならないとしたら、私などはとてもではありませんがついていけません。
私は日本に生まれて日本で育ったためか(おそらくそうでしょう)この国のやり方が性に合っています。
街を汚さないとか、規律を守るとか、人に迷惑をかけないとかは、他人の目を気にしてやっていることではありません。確かに「世間体」という言葉があり、「人さまに恥ずかしくない生き方をしなさい」とかいった言い方もしますが、それらの言葉を使いたがる人たちに、「では、あなたにとって『世間』とか『人さま』というのは具体的に誰ですか?」と訊けばたいていの人が答えられません。
答えられないのは「世間」や「人さま」に実体がなく、それはその人の中に内在化された「他人の目」――「誰が見ていなくても自分だけは見ている」とか「お天道様が見ている」というときの「見ている主体」のことを言うからです。
孔子は「70歳になったら自分の心のままに行動しても人道を踏み外すことがなくなった(七十にして心の欲する所に従えど矩をこえず)」と言いましたが、日本ではそれに近いことのできる人がかなりいると、私は信じています。
【お疲れさまでした! よいお年を!】
28日まで授業という学校も少なくありませんが、日本中のほとんどの学校で今日が終業式だったようです。
例年だと懇談会をやって通知票を書いて、ようやくたどり着いた今夜は忘年会で一夜限りのバカ騒ぎ、というところですが、皆さま、今日は静かにお帰りになったことでしょう。
その労をねぎらう言葉が、いまは見つからなくて困っています。コロナ禍での学校の実際が分からないからです。だからここは中途半端な慰労などせず、黙ってお見送りしたいと思います。
年が明ければ何かが大きく変わるわけでもありませんが、先生方、しばらく心を休めて、また戦場にお戻りください。
私も1月7日ごろまで休むつもりです。
それでは皆様、良いお年を!