カイト・カフェ

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「同調圧力:被害者はいるが加害者はいない」~同調圧力とKY①

 卒業式のマスクがなぜこれほどまでに問題なのか分からない。
 同調圧力でつけさせるのは間違いだともいうが、それも分からない。
 圧力をかけているのが誰なのかも分からないし、
 圧力をかけている者の責任が追及されない理由も分からないのだ。
 という話。(写真:フォトAC)

【結局よく分からない卒業式のマスク】 

 卒業式のマスクをどうしようかということが大問題らしく、文科省は児童生徒および教員は校歌や合唱の際を除いてマスクを着用しないことを基本とし、保護者と来賓にはマスク着用を求めるという通達を出したみたいです。その上で岸田総理みずから「決して着脱を無理強いすることないよう求めたい」と言っていますから、最終的には学校判断――しかし学校も妙な責任追及の矢面には立ちたくありませんから、新型コロナやインフルエンザがまん延していない限りは、個人の自由ということで判断を投げ出す(または親まかせにする)ところが多くなるような気がします。

 私にはそもそも卒業式のマスクがなぜこれほどまでに問題になるのかよく分かっていないところがあります。“マスクが子どもの心身の発育に与える悪影響を考えろ”と怒る人もいますが、「もう日常的にやめましょう」という話ならまだしも、卒業式や入学式の一瞬のマスクに、どういう心身の悪影響があるのかよく分からないのです。

 “3年間マスクの離せなかった子たち、最後くらいはマスクを外して笑顔で別れさせたい”という親心は分からないではありません。しかしそれは親心であって必ずしも本人たちの気持ちではありません。
 ちなみに昨日のNHKニュース「卒業式のマスク着用「外したい」約2割にとどまる 高知の中学校」では、アンケートを取った結果、「外したくない」54%に対して「外したい」は半分以下の23%。「迷っている」を加えても半数に満たなかったそうです。3年もマスク生活を続けてきたのですから、さもありなんというところでしょう

 もちろん「学校生活の大半をマスクをして過ごしてきたので最後は外してみんなの笑顔が見たい」という生徒もいます。しかし他方で「いまさらマスクを取ったら誰か分からなくなっちゃう」などという話もあって厄介な問題には違いありません。
 もっともこれについては別のところ()で一度扱っているので、改めて話すことはやめましょう。今日、取り上げるのは昨夜民放のニュース・キャスターが、
「子どもたちですから非常に同調圧力が強い。ぜひとも同調圧力でマスクをつけさせるようなことは絶対に止めてほしい」
と言った、その「同調圧力でマスクをつけさせる」に違和感があったからなので、マスクの是非を話すつもりはないのです。
kieth-out.hatenablog.jp


同調圧力とは何か】

 「辞書によると・・・」という書き方はありきたりなので使いたくないのですが、また意味が分からなくなったのでChatGPTに訊くと(早いでしょ?)、こんな答えが返ってきました。

 同調圧力とは、社会心理学において、個人が自分と異なる意見や行動をとることを避け、社会の一員として認められるために同じ意見や行動をとることを求められる現象を指します。
 この現象は、周りの人々と同じように振る舞うことで、自分が他の人から受ける評価や承認を確保するために起こります。同調圧力は、グループの一員であること、あるいはグループのメンバーになりたいと思っている場合など、様々な状況で発生することがあります。
 同調圧力によって、個人は自分の本来の意見や行動を抑え、他者に合わせた意見や行動をとることがあります。この結果、個人の自己決定力やクリエイティブ性が制限されることがあり、意思決定や問題解決に悪影響を与えることがあります。

 非常に納得できる説明です。ただし私にとってはアテの外れた答えで――、というのは大辞泉にあるような、
「集団において、少数意見を持つ人に対して、周囲の多くの人と同じように考え行動するよう、暗黙のうちに強制すること」
といった答えを期待していて、「果たして中学生に『暗黙のうちに強制する』といった行動変容の高等技術が使えるのだろうか」と、そんな方向に話をもっていくつもりだったのです。しかしChatGPTの答えはむしろ「同調圧力は自分自身の中にある」といった話になります(同調圧力は、グループの一員であること、あるいはグループのメンバーになりたいと思っている場合など、様々な状況で発生することがあります)。
 それだとよく分かるのです。

同調圧力:被害者はいるが加害者はいない(?)】

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」
 この場合、恐怖は川柳の書き手が自らの中に起こしたのです。枯れ尾花に文句を言う筋合いはありません。

 同様に、例えば屋外でもマスクをつけている人たちは、
本気で感染予防をしていたり、
万が一にも自分が罹っていて他人にうつしてはいけないと思っていたり、
たまたま風邪をひいていたり、
花粉症だったり、
あるいは口元保温のためだったり、
髭を剃り忘れた・口紅をつけ忘れた、コロナに便乗して始めた歯列矯正が終わっていなかった等々特殊な事情があったり、
と、それぞれ理由はあるにしても、多数派であるのをよいことに嵩にかかってマスクをしない人を責め立てているというわけではないのです。

 コロナ禍初期の自粛警察だのマスク警察だのは、恐怖が生み出した一種の自警団運動です。関東大震災のときのアレと同じで、昔は情報の乏しさによって、現代は情報が多すぎることによって、恐怖が自己防衛の必要性を生み出します。
 しかし普通の状況で、人々がみんなで示し合って少数派に圧力を加えようとすることはまずありません。しかしそれにもかかわらず、さまざまな局面で圧力をかけられた、かけられている、と感じる人は少なくないのです。
 ワールドカップサッカーのスタジアムでゴミを片付けない日本人、2年前のパリでコロナが怖くて友人のホームパーティに行けなかったフランス人、ひとりでランチをするのが好きなアメリカ人、こういう人たちはすべて同調圧力の犠牲者です。しかし加害者はいません。
 
 しかしそうなるとかつて流行した“KY(空気、読めない・空気、読まない)は何だったのでしょう?
 
 (この稿、続く)