カイト・カフェ

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「子どもたちの帰って来ない正月」~同調圧力の話①

 結局、子どもたちは年末年始の帰省を諦めた。
 私も致し方ないと思う。
 しかし結論は同じでも、そこに至った理由は同じではない。
 私たちはどれをどう考えたらよいのだろう。

という話。

f:id:kite-cafe:20201223064456j:plain(写真:フォトAC)

 

【正月、子どもたちが帰って来ない】

 結局、娘のシーナも息子のアキュラも、この年末年始の帰省を断念しました。シーナの家族は一年おきに夫の実家、妻の実家と交互に正月を過ごしますので、私の家で家族が揃うのは2年後ということになります。その間に孫のハーヴやキーツはどんどん大きくなってしまいますから、返す返すも残念です。

 ついこの間まで、
「直近一週間の10万人あたりの感染者が23・8人(当時)の東京に住むシーナが感染している確率は0・0238%。しかし踊る人々と耐える人々とでは自ずと危険性に差があるから、シーナの感染している可能性はさらに低いだろう。だったら第三波の真っ最中という体裁の悪いタイミングだが、帰省したってかまわないじゃないか」
と思っていたのです。しかし完全に様相が変わりました。

 全国知事会が暗に“帰省してはダメ”と言い、小池東京都知事が、
「年末年始は『家族でステイホーム』に、ぜひとも協力いただきたい。買い物や通院など『どうしても』という場合を除いて、外出はぜひとも自粛をお願いしたい」
と呼びかけた以上、何も考えずに帰省というわけにもいきません。
「お正月は田舎で、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に」
は通院や買い物と肩を並べるには、あまりにも不要不急です。

 周囲を見回して職場の人々やママ友、SNSでつながる友人たちの話を聞いても、あっちでも断念こっちでも「帰りまテン」では、その中にあって「帰ります」とはとても言えない。
 黙っていれば分からないという理屈は、5歳のハーブは保育園できっとしゃべるに違いないという現実的な面を差っ引いても、背負い続けることのできるものではありません。

 

【アキュラの場合、シーナの場合】

 アキュラの住む熊本は東京の多摩地区よりさらに感染率は低くなります。しかし根に妙に生真面目な部分を持つこの息子は、「すべての人が自分は“感染者である”という想定の下に行動すべきだ」という話をどこかで信じているみたいで、私たち夫婦(高齢者だそうです)や祖母(93歳ですから本物の高齢者)に感染させるのではないかと本気で恐れているのです。
 もっとも感染リスクを負いながら苦労して帰省しても、友だちと飲んで話に花を咲かせるわけにもいきませんから、重症化リスクの高い私たちと一週間も過ごして帰るだけならそれもかわいそうです。
 独りぼっちの大晦日は気の毒ですが、感染させる心配がないという意味では気楽でいいのかもしれません。

 ところでアキュラの断念はかなり自主的なものでしたが、シーナの断念理由は主に「周りが次々と帰省を取りやめている」「みんな我慢している」「それなのに私たちだけが帰るわけにはいかない」という、人間関係、社会関係から来ているものです。周囲のことを気にしさえしなければ、私と同じように感染の可能性は極めて少ないと考えている娘ですから、帰って来たと思います。

 そこで思ったのですが、日ごろから日本人の同調圧力について問題視している皆さんは、この事態をどう考えるのでしょう?
 シーナが直接「みんなに合わせて帰省を見合わせろ」と言われたわけではないので、同調圧力の問題とは言えないということなのでしょうか、それともシーナは無言の同調圧力に屈して自己を曲げたということになるのでしょうか?

 

【何か奇妙な言い回し】

 同調圧力についてよくわからなくなったのはこの4月、自粛警察が問題になったときのことです。これを扱ったニュースの終わりで女性アナウンサーが、
「私も人ごみでマスクをしていない人を見ると、思わず視線がきつくなったりしてしまいます。気をつけなくてはいけませんね」
とまとめたのですが、それがどうにもしっくりこない。

 言い換えて見ましょう。
「人ごみでマスクもせず咳き込んでいる人がいたとしても、温かい目で見守ってあげましょう」
「犯罪に走るような人たちは、たいてい不幸な生い立ちをしているものです。罪を憎んでひとを憎まず。警察に訴えるようなことをしてはいけません」
「政府が自粛を呼び掛けていたとしても、それに応じるか応じないかは個人の自由です。法律ではないのだから、彼らが群れようがマスクをせずに大声で叫んでいようが、冷たい目で見てはいけません」
 何か変ではありませんか?