カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「不幸な組み合わせ、幸福な組み合わせ」~自分の居場所がない!②  

 子どもは、初めから異なった性格をもって生まれてくる。
 親にも、親になって初めて知る自分の性格というものがある。
 その組み合わせは千差万別、さらに他の要素も加えて複雑になる。
 だから、
 子どもの「居場所」をつくりやすい組み合わせと、そうでない組み合わせがあるのだ。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200528070943j:plain(「産まれたての赤ちゃん」フォトACより)

 

【人はそれぞれ異なるものを持って生まれてくる】

 いつもここではシーナと呼んでいる私の娘が昨年産んだ次男イーツが、つい最近、一歳の誕生日を迎えました。臨月前に破水してしまい苦労して産んだ子です。今は元気で、しかも体が軽くて動きやすこともあって、すでに歩き始めているようです。

 この子の特徴はそうした身軽さとともに感情が豊かなことで、楽しいとよく笑いますし赤ん坊らしいくっつき虫で、いつも母親のシーナか父親のエージュのどちらかにくっついて、そこを基地に遊びに行っては戻り、戻ってはまた遊びに行くということを繰り返しているようです。
 感情豊かですから笑いもしますが夜泣きも激しく、いったん泣き始めると頑として引かないところがありました。私も九州旅行の際は難渋したものです。

 四つ年上で間もなく5歳になる兄のハーヴはそれと全く違う赤ん坊でした。
 こちらは新生児仮死というイーツに増してたいへんな難産でしたが、生まれたころからとてもおとなしい子で、いまでも覚えているのは離乳食のころ、祖母に当たる私の妻が「エーンって二回泣いたらあげるからね」とスプーンを口元まで持って行ってしばらく様子を見ていた光景です。特に意地悪をしたわけではなく、ちょっと試してみた感じです。しかし泣かなかった。
 とても不愛想な赤ん坊で、生後三か月を過ぎたあたりで初めて声を出して笑った瞬間を、皆が覚えているくらいです。

 運動発達に遅れがあって初めての寝返りが生後10カ月、ハイハイを始めたのが1歳1か月、ようやく歩き始めたのが1歳4か月でした。確認ですが、弟のイーツは誕生日前に歩き始めているのです。

 ハーヴは徹底した屋内派で、部屋の中では放っておけばいくらでも一人遊びをしています。ですから今回の新型コロナ自粛でもシーナはまったく困りませんでした。何しろ親が促さないと散歩にすら出ないのですから。
 
 

【子の性格で親の育て方は揺れる】

 さて、二人の孫の話をしたのは別に孫自慢ではなく、子どもは生まれたときすでに強い個性を有しているということを確認しておきたかったからです。

 おとなしく、内向的で育てやすいハーヴと、陽気で活動的で泣き止まないイーツ。
 教員時代、多くの保護者から、
「兄弟、同じように育てたつもりなのに・・・」
といった言葉を聞くことがありましたが、そんなことはありません。これだけ違った個性を育てている以上、育て方にも相応の違いがあったはずです。

 例えば次男のイーツはくっつき虫で長男のハーヴは不愛想な赤ん坊だったと書きましたが、そのことが父親の養育態度に影響を与えます。
 イーツはべたべたとくっついてきますから自然に接する機会が増えます。抱き上げるとキャッキャと声を上げて手足をばたつかせて喜びますから、また抱こうという意欲につながります。しかし長男のハーヴは不愛想で体が重く、常に体が母親の方に向かおうとしているので何となく気が引けたりするのです。

 二人について父親のエージュが差別しているとは思いません。いつも同じように、よく子育てに参加してくれています。しかし毎日の小さな違いの積み重ねは、二人の成長に違った影響を与えることでしょう。どちらがいい、どちらが得ということでもありませんが。
 
 

【子どもが好きでなくてもよい親になれる】

 母親のシーナについて話しておきます。
 シーナは中学生のころから「一番の目標はお母さんになること」と言っていたくらいですから、四大を出て25歳で結婚し26歳で母親になったのはほぼ目標通りでした。しかし振り返って中学生だった頃のシーナが子ども好きだったかというと、まったくそういう記憶はありません。そこで聞いてみるとすんなり、
「別に好きじゃないよ。早く結婚して子どもを産みたかったのは、女の子どうしの恋愛・結婚・出産レースに巻き込まれるのが嫌で、その前に抜け出したかっただけ――」
 よくわかりませんが女の子の世界には難しいことがあるみたいです。

 さて、それほど子どもが好きでもないのに母親になったシーナはそれからどうだったか――。
 直接の父親である私が言うのも不適切かもしれませんが、よくやっている、非常によくやっていると感じています。普通の母親が期待されることは一通りできているみたいですし、夜泣きに苦労したり、特にハーヴの発達には心傷めることも多かったのですが、なんとかしのいできました。
 私は赤ん坊が大好きですからいつでも羨ましく、思わず「いいなあ」と言ってしまうことがあるのですが、「うん、幸せだと思ってるよ」と答えますから、まずは及第点でしょう。

 一般的な意味で「子どもが好き」でなくても、親は勤まるのです。
 
 

【不幸な組み合わせ、幸福な組み合わせ】

 そんな気はさらさらなかったのに、親になったらとんでもなく楽しい、自分に向いている、という人もいれば、まったくやっていける気がしないという人もいます。

 つい先日もテレビで、独身の頃は赤ん坊の泣き声が聞こえるだけでも舌打ちをしていたのに、親になったら面白くて楽しくて、今では保育士さん並みに歌って踊って大騒ぎをしているというタレント(?)さんが出ていました。こういう人は幸せです。

 しかし逆に、赤ちゃんが欲しくてほしくて、ようやく手に入ったと思ったら我が子がまったくかわいいと思えない、好きになれない、そういう人だっているでしょう。もちろんかわいくないからと言って育児放棄するわけでもありませんが――。

 いつまでたっても子どもが可愛いという人もいれば、ある時期からまったく関心を失ってしまったという人もいるでしょう。
 夫婦間の子どもに対する感じ方の不均衡というものもあります。

 私の家のトイレの格言カレンダーで今月の格言は「親の希望は押し付けすぎると子供の負担になる」で、毎日“こういうのも格言というのかな”と首をかしげていますが、親と子の願いの不整合ということもあるでしょう。

 夫婦の組み合わせ、親と子の組み合わせ、子と子の組み合わせ、それぞれの願いの組み合わせ――それらは無数にあり、その中の不幸な組み合わせから「家に居場所のない子ども」が育ってくる――今、私が考えているのはそういうことです。

 回りくどい言い方になりました。言わんとするところは、親にも罪はない、子にも罪はない、要するに組み合わせの問題なのだ、ということです。

(この稿、続く)